父の名は河野辰登、それでも無国籍 戦後74年目の訴え

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編集委員・大久保真紀
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 戦前フィリピンに移住した日本人を父に持ちながら、戦争の混乱で日本国籍を得られなかった日本人の2世たちが、フィリピンに数多く残された。こうしたフィリピン残留日本人2世の代表団が10月28日に来日し、日本国籍の回復を訴えた。多くはすでに80歳を超えているが、今も約1千人が無国籍状態に置かれたままだ。戦後74年。置き去りにされた日本人に、祖国はどう応えるのか。

「日本人」隠して生きた

 10月中旬、南部ミンダナオ島のダバオから船で15分ほどのサマル島を訪ねた。うっそうとしたマンゴー林を抜け、山道を登ると、ロメオ・コウノ・アルダレスさん(74)が高台にある自宅の入り口から手を振って出迎えてくれた。

 「私の父は日本人」。開口一番に言った。13年前に父の身元は判明したが、無国籍の状態が続いている。

 フィリピン人の母の話では、父は広島出身で、戦前セブ島に渡り、1943年に母と結婚。食料品を運ぶトラックの運転手をしていた。戦火が激しくなった44年ごろ日本軍に従軍し、そのまま帰って来なかったという。ロメオさんが生まれたのは45年1月だ。

 母から聞いた父の名は「タツト・コノ」。2世の身元捜しなどを支援するNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)」(事務局・東京)が外交史料館の資料から「河野辰登(たつと)」の名前を発見した。戸籍も確認できたが、父は45年6月にレイテ島で戦死していた。それを知ったロメオさんは妻(70)とふたりで泣いた。

 戦後、母はフィリピン人男性と再婚。反日感情が激しく、ロメオさんは義父の姓「アルダレス」を名乗った。一家はセブ島からサマル島に転居したが、母との間に12人の子どもをつくった義父との関係がうまくいかず、祖母宅に身を寄せて草刈りの仕事をしながら小学校に通った。学校では「ハポン(日本人)」とからかわれた。「実父がいれば、こんな苦労はしなかった」と目を赤くした。

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