小林多喜二の拷問死、遺族が告訴試みる 弁護士供述記録

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中村尚徳
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 「蟹工船」で知られるプロレタリア作家、小林多喜二(1903~33)が治安維持法違反容疑で逮捕され、警視庁築地署で拷問死した後、遺族が特高警察を告訴しようとしていたことが分かった。多喜二研究者の荻野富士夫・小樽商科大学名誉教授(日本近現代史)が、多喜二と関係のあった弁護士を取り調べた公判前の予審記録からみつけた。告訴は実現しなかったが、厳しい思想弾圧の時代に拷問死をめぐって遺族が抵抗を試みようとした一端が明らかになった。

 記録は、33年9月に同法違反容疑で検挙された窪田貞三郎弁護士に対する「予審尋問調書写」。予審判事が34年3月~35年2月、東京の豊多摩刑務所で窪田に尋問した12回分のやり取りを記した写しで、同志社大学京都市)が所蔵してきた。

 窪田は労働・農民運動家らの法廷闘争を支援した日本労農弁護士団の一員。「調書写」には遺族から告訴を依頼されたかどうかを問われた記述があり、「弟と兄から依頼され資料を受け取り、別の弁護士に引き継いだ」とし、「証拠薄弱のため、そのままになった」と答えていた。

 荻野さんによると、警視庁は33年2月20日の逮捕当日に死亡した多喜二の死因を「心臓マヒ」と発表。だが、自宅で遺体を見た医師や友人らが両足などに暴行の痕を確認し、遺体写真や多喜二の母セキの証言から拷問死とされてきた。

 弁護士団は告訴に向けて遺体解剖を3カ所の大学病院に頼んだが、いずれも解剖されなかった。荻野さんは、特高が告訴を阻むために病院側に圧力をかけたとみて、「こうした記録は敗戦時、ほとんど焼却処分され、極めて貴重な資料だ。遺族が告訴できれば同法運用に欠かせなかった暴力的取り調べに一定の歯止めがかかった可能性はある」と指摘する。

 荻野さんによると、戦前にも…

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