モロコシが生んだ絶景と悲劇 富士山麓、ある村の80年

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野口憲太
【動画】1940年公開のアサヒホームグラフ「玉蜀黍の村」
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 富士山のふもとに広がる一面のトウモロコシ畑。村人たちがトウモロコシを手でもぎ、軒先に鈴なりにつるしていく――。1940(昭和15)年ごろ、山梨県鳴沢村を撮影したとみられる映像が残っていた。当時、「もろこし村」とも呼ばれた。今では県内有数のキャベツ産地だ。

「富士を背に一面のトウモロコシ」

 「玉蜀黍(とうもろこし)の村」と題された約2分間のモノクロ映像。朝日新聞社が約80年前に制作した子ども向けニュース「アサヒホームグラフ」の一つだ。

 映像は「南都留郡河口湖から西湖にかけての一帯は、美しい富士の霊峰を背に(中略)見渡す限り一面トウモロコシが植えられています」とはじまる。

 富士山のふもとは溶岩と火山灰が固まった土地が広がり、水資源に乏しく稲作ができない地域がある。映像も、「この辺の村では米がとれないため、代わりにトウモロコシを主食としているのです」と説明する。

背丈よりも大きく育って

 「なかでも鳴沢村では……」とナレーションが入る場面では、背丈よりも大きく育ったトウモロコシ畑で村人たちが収穫し、トウモロコシの実を包む葉を老若男女でむいた後、トウモロコシを鈴なりにまとめて軒先につるし、乾燥させる様子が映し出されていた。

 いまのようにかじりつく食べ方だけでなく、乾燥させて臼でひいて粉にして、それを団子にして食べていたという。

当時「まさにこんな風に」

 映像が撮影されたころに村で生まれたJA鳴沢村組合長の渡辺昭秀さん(79)に映像を見てもらうと、「まさにこんな風にしてみんなで集まり、葉をむく作業をしたよ」と懐かしんだ。

 当時は、農作業を近所のみんなで手伝う「結(ゆい)」と呼ばれる集まりがあり、秋から冬にかけての収穫期、数世帯が集まり葉むき作業をしたという。

 渡辺さんも幼いころから「結」に参加。山積みされたトウモロコシの束にのぼって遊んだといい、「まるで保育園のようだった」と話す。

観光バスも目をとめた

 収穫したトウモロコシを軒先につるす風景は収穫期の風物詩で、観光バスがわざわざ止まって見ていたこともあるという。「もろこし村」と呼ばれたゆえんだ。粉で作った団子は「もろこしまんじゅう」と呼ばれ、「食べるとうんと甘いんだ」と渡辺さん。ゆでたり焼いたり、囲炉裏の灰に埋めて火を通したりして食べたという。

トウモロコシが生んだ思わぬ悲劇

 戦争をめぐる悲劇にもトウモロコシは関わっている。

 1988年に出版された鳴沢村誌によると、旧日本軍徴兵検査でもっとも優れた体格を持つ者に与えられた「甲種合格」率が鳴沢村は日本一高く、「太平洋戦争中の戦死者も多く出した」という記述がある。理由として「常食としてトウモロコシを食べて育ったことにある」とも記されている。

 映像にも、トウモロコシ食を要因として「全国でも有名な模範的健康村として知られている」「戦地の食料問題、特に代用食研究の上に大きな暗示を与えている」と戦時中の雰囲気がにじみ出ている。

かつての「もろこし村」は今…。記事後半では現在の様子が動画でご覧頂けます。

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■トウモロコシからキャベツへ…

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