終戦の日も空襲があった 「神国日本」信じた少年の記憶

有料記事空襲1945

中村瞬
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 74年前の8月14日深夜から15日未明、群馬県の伊勢崎周辺は米軍機による空襲を受けた。埼玉・熊谷や秋田・土崎と並び、最後の本土空襲と呼ばれる戦災。40人が犠牲になった。その夏の日の光景を、少年は日記に残し、記憶に焼き付けた。15日は終戦の日。

昼間のように明るく赤く

 当時12歳だった森村俊之助(としのすけ)さん(86)は、伊勢崎市栄町(現在の曲輪町)で育ち、今も同地に住む。空襲当日は約6キロ離れた旧東村の母の実家に疎開していた。

 空襲警報のサイレンで目が覚めた。自宅がある伊勢崎の方角は、昼間のように明るく真っ赤。「伊勢崎もついにやられたかと、子どもながらに悔しかった」

 普段は疎開先の最寄り駅だった国定駅から列車で伊勢崎駅近くの伊勢崎第二工業学校へ通学していたが、15日朝、両毛線は動いていなかった。市内の飛行機部品工場に通勤していた父の自転車の荷台に乗り、学校へ向かった。

 登校していたのは20~30人ほど。生徒たちは「あいつの家が焼けたらしい」など、空襲について語っていた。すぐ下校になり、自宅の状況を確認しようと同級生数人と歩き始めた。

 街のそこかしこに煙が残り、かすんで見えた。たくさんの民家や商店が焼け落ちていた。焼け跡に水をかける人の姿や、水田に焼夷(しょうい)弾が刺さった光景が目に入ってきた。道端には焦げた畳が干されていた。

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 自宅近くにたどり着くと、屋…

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