被爆体験、語らず逝った父 今年、ある用紙が見つかった

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東郷隆 榎本瑞希
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 たった一発の爆弾が、暮らしを、家族を、命を奪い去ってから74年。広島は6日、鎮魂の日を迎えた。人々はそれぞれの思いを胸に、「ヒロシマ」に向き合った。

 生後2カ月で被爆した広島県福山市の平逸雄さん(74)は6日、広島市中区平和記念公園で開かれた平和記念式典で「被爆者代表」として参列した。花を手向けたとき、思い浮かべたのは被爆体験を語らず亡くなった父。だが今年、思いもよらぬ形でその記憶に触れた。

 逸雄さんの父、頼昭さんは寡黙だった。戦中は広島鉄道局で、戦後は国鉄の電気関係の部署で働いた。退職後は畑仕事に精を出し、孫に竹とんぼを作ってやるような穏やかな晩年。だが被爆体験を自ら語ることはなく、2003年に86歳で亡くなった。

 聞いておけば良かった――。逸雄さんがこう悔やんで16年。父の記憶に触れたのはそんな時だ。

 今春、公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を訪れた。被爆者らの証言をデータベース化している。ふと思い立ち、端末の検索画面に父の名を打ち込んでみた。すると、画面にA4用紙が表示された。隙間なく、頼昭さんの丹念な字で被爆当日の行動や心境がつづられていた。「書き残していたなんて……」

 その記述によると、広島鉄道局で働いていた頼昭さんは、爆心地から約2キロの広島駅構内で被爆。右手と顔にやけどを負った。駅西側にあった単身赴任先の家には、福山市の自宅から妻サカエさんが逸雄さんを連れてきていた。そこへ戻ると妻子の姿はない。「生死がわからない」「途方にくれてしまい落胆して自分も倒れそうになった」。2人とは昼前に偶然再会できたが、「妻も長男もヤケド、負傷しており歩くことも出来ぬ」と記した。初めて知ることばかりだった。

 頼昭さんは地元の被爆者団体の活動には参加していたが、証言活動をした形跡はなかった。だが「水を飲ましてくれと頼まれ飲ませて息切れる者多くまるで生(き)地獄」との一文を読み、「語らなかったのは当時を思い出したくなかったからかもしれない」と感じるように。それでも体験記を書いたのは、「心の中では原爆への強い怒りがあり、惨状を残さないといけないと思ったのでは」と推し量った。

 お盆には逸雄さんの3人の子どもや孫が広島へ遊びに来る。そのときに頼昭さんの体験記を読んでもらうつもりだ。「優しかったおじいちゃんの壮絶な経験に驚くでしょう。核兵器や平和について身近に感じるきっかけにもなるのでは。父の体験をずっと語り継いでいきたい」(東郷隆)

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