ウチナーンチュの被爆、刻む 差別や偏見恐れて隠した父

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山城響
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 沖縄県糸満市にある「平和の礎(いしじ)」に、国内外の42人の戦没者らの名前が今年刻まれた。長崎で被爆し、昨年3月に90歳で亡くなった與那嶺(よなみね)浩さんは、その中のひとりだ。

 「被爆から74年、おやじも戦争被害者の一人として名前を残してもらえた」

 長男の尊(たかし)さん(54)=那覇市=は先月21日、約20年ぶりに礎を訪れた。刻まれたばかりの父親の名前をそっと指でなぞり、手を合わせる。「ここに来て名前を見れば、平和について考えられる。生前のおやじの思いが果たせた」。そういって笑顔を見せた。

 24万あまりの名前が刻まれた斑れい岩の碑が連なる平和の礎。3カ月に及ぶ地上戦で亡くなったウチナーンチュ(沖縄の人)らの名が刻まれているが、その中には広島、長崎で被爆した沖縄県出身者の名も建立当初から並ぶ。

 1945年8月9日。当時17歳だった浩さんは長崎湾に浮かぶ香焼(こうやぎ)島の造船専門学校で閃光(せんこう)を見た。爆心地から約10キロ。「米軍に何かを落とされたのだけはすぐにわかった」と生前語っていた。遺体の搬送を手伝って被爆。差別や偏見を恐れ、自分のきょうだいや親戚にも被爆したことを隠した。30歳を前に沖縄へ戻り、見合いを重ねた。ただ相手に明かすと断られることも度々。妻となった正子さん(故人)と出会うまで、それは続いた。

 沖縄に戻った後、肝臓が悪くなり、血を吐くように。背中には原因不明の吹き出もの。戦後の米軍統治下で、沖縄の被爆者に対する国の医療保障は本土より10年遅れた。「長くは生きられない」と医師に告げられた。「だったら、好きな泡盛飲んで死ぬさ」。こう言って酔いつぶれる一方で、戦争の話をするとき口をついて出るのは、「沖縄戦で亡くなった人たちに比べれば……」。尊さんから見れば、被爆の恐怖と故郷への負い目は、ずっとつきまとっているようだった。

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 浩さんのきょうだいは、浩さ…

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