爆心地の地図、再現した父 その言葉を体現する広島知事

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宮崎園子
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 平和記念公園一帯はかつて、住宅や店舗がひしめく広島屈指の繁華街だった。一発の原子爆弾が奪い去った人々の命や記憶、つながり。そんな一つひとつを丹念に調べ上げた社会学者がいた。湯崎稔・元広島大教授(1931~84)。調査結果の出版からちょうど半世紀。次男は今年も8月6日に、広島県知事としてその地に立つ。(宮崎園子)

 7月7日、広島市中区の平和記念公園の一角で、発掘調査の見学会があった。数十センチ掘り下げたところから、イグサやワラの付いた床板が出てきた。「屋根が落ちて蒸し焼き状態になったようだ」と専門家が分析。材木店を営んでいた「加藤さん」宅の場所ではないか、と見立てた。

 公園一帯にはかつて、住宅街や商店が立ち並び、約1300世帯約4400人が暮らしていたとされる。その一つひとつにどんな人が住み、どんな生活が営まれ、人生がどう変えられたか――。広島大原爆放射能医学研究所(現・広島大原爆放射線医科学研究所)の助手だった湯崎は考えた。

爆心地周辺の地図、復元へ

 テレビ局などを巻き込み、爆心地周辺の当時の様子を復元する運動を進めた。学生らと元住民を訪ね歩き、少しずつ白地図を埋める地道な作業だった。その成果は1969年7月20日、「原爆爆心地」(志水清編、日本放送出版協会)として世に出た。

 「『唯一の原爆被災国として……』という言葉はよく使われる」が、「世界に訴えるべき基本的データをもっていない」「いったい広島・長崎は、今日何によって核時代の証人を名乗るのか」。冒頭にはそんな言葉が記されている。

 復元作業の試みについて、同書はさらにこう説明する。「核抑止力」のもと核兵器が蓄積され続け、「核の脅威は世界のどこの国のだれの上にも及び、だれもが逃れることのできない核の呪縛の下におかれている」。だからこそ、広島で何が起きたのかを永久に残すことが必要だ、と。

 今年4月に展示がリニューアルされた広島平和記念資料館本館には、湯崎らの調査をもとに銅板で作られた旧中島地区の復元地図(縦4メートル、横3メートル)が再び掲げられた。

引用してきた父の言葉

 カフェーやシネマ、銭湯――。かつての「日常」がびっしりと刻まれている銅板が見下ろす原爆死没者慰霊碑前で、今年も8月6日に、湯崎の次男英彦は県知事としてあいさつする。

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 2009年の就任以降、父が…

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