(小説 火の鳥 大地編)21 桜庭一樹 「芳子と一緒にいたくても、きっとまた……」
わたしにとって五回目となる外の世界……。
今度は約三年後の一九三七年七月になっていました。
再び急いで満州国に向かい、間久部という日本人を探しました。やがて、中国東北地方を支配する關東軍にその名の少佐がいるとわかりました。陸軍のビルや宿舎の前で待ち伏せしました。でもちょうど日本軍は北京を攻めて“支那事変(日中戦争)”を始めたものの、形勢不利となったところで、人の出入りも多くひどく混乱しており、みつかりません。
調べると、間久部少佐は上海を中心に発展した新興財閥、三田村家の末娘と縁談があり、頻繁に上海に出向いていることもわかりました。そこでわたしは満州国を出て、大陸を南下し、孫文の墓陵のある南京に到着。そこから揚子江沿いに東に向かい、上海に着きました。
魔都上海! 東洋のパリ! 世界中から集まった人々が、租界で浮かれ、働き、遊び続けていました。見たことないほど豪奢(ごうしゃ)な悪徳の街です。わたしは上海語を覚えつつ、間久部少佐を探しました。ある夜会にやってくると知り、野鶏(ヤーチー)(白系露人の娼婦(しょうふ))になりすまして会場に潜入しました。
ところが、いましも怪しげな夜会が始まるというとき……またもや草原のような風が吹き、わたしをなぎ倒しました。風が止(や)んだときには、再び楼蘭王国に……。
わたしは悔しさに歯ぎしりしました。
今度こそ間久部少佐を返り討ちにし、謎を解くと決意しました。繰り返される永遠の一日のほとんどを、神殿で一人過ごすようになりました。ほどなく、間久部少佐がまたやってきました。前回の部下はおらず、少佐と面差しの似たおとなしそうな青年と、ぞっとするほどの美貌(びぼう)を持つ青年の三人組でした。
立ち振る舞いから、美貌の青年の戦闘力がもっとも高いと推理しました。わたしは神殿の柱の上から飛び降り、鉄の武闘笛を美貌の青年の脳天に叩(たた)きつけました。血と脳漿(のうしょう)が飛び散り、青年はその場に倒れます。それを見たおとなしそうな青年が「ルイ!」と叫びました。わたしはその彼をなぎ倒し、背中に乗ると、両腕で頭を摑(つか)んでひねりました。ゴキッ。首の骨が折れるいやな音がしました。間久部少佐の「正人ォォォー!」という絶叫が聞こえました。
振り向きざま、間久部少佐と間合いを詰め、敵の右手を武闘笛で強く叩きました。敵の銃が床を滑って遠ざかります。わたしは素手の彼に立ち向かい、「間久部緑郎! 這次不会再譲你跑口拉(口偏に拉)(チョーツープーホイツァイランニーパオラー)。従実招来(ツォンシーチャオライ)(今度こそ逃さない。秘密を話してもらう)!」と叫びました。
「な、なぜぼくの名を知ってる? 北京語を話せる?」
「あなたが楼蘭にくるのは三回目よ。前回は自分の手で部下を殺していた」
「な、何だって?」
「その前は、うなされてこう言っていた……」
と、わたしはあの聞いた寝言を伝えました。すると間久部少佐ははっとし、
「そ、それは、日本語で“母”という意味だ。なぜこの女がぼくの寝言を知っている……?」
「だから、何度も会っていると言っているでしょう」
間久部少佐は「くそォ!」と叫ぶと、隙をついて靴の内部から小型ナイフを取りだし、「正人の仇(かたき)だ!」とわたしの右頰に突き刺しました。わたしは絶叫しました。間久部少佐は神の鳥の首を摑み、銃も拾い、こちらに銃口を向けました。間一髪わたしは祭壇の陰に飛びこみ、銃弾から逃れました。それから右手で、頰に突き刺さったナイフを引き抜きました。ドッと血が流れます。立ちあがり、ナイフを間久部少佐の背に向かって投げました。ナイフは彼の背に突き刺さりましたが、よろめきながら相手も必死で逃げていきます。
わたしは神殿から飛びだしました。奴(やつ)が城門の外でラクダに飛び乗り、去っていくところが見えました。血が流れる頰を両手で押さえながら、追おうとして、ふと……。
わたしは楼蘭王国を見回しました。懐かしい人々の顔や、華やかな町の様子を見ました。
あぁ、みんなまた消えてしまうんだ。風が吹いて、砂の中に……。
胸がかきむしられるような気持ちになり、一歩も動けなくなりました。
このまま、城門から出ずに、ここにいたら、もしかしたらわたしも砂の粒になって消えるのかな。ここでいまこのまま地上から永遠に消えてしまってもいい……。
でも、結局わたしは、頰の傷を押さえながらよろめき歩き、城門からまた外に出ました。
今のわたしには、敵たる間久部少佐がいたからです。
背後で楼蘭王国が砂になって消えていきました。
間久部緑郎を追い、わたしは一路上海へ。六回目の外の世界は、一九三七年九月。前回の約二カ月後でした。
世界中から集まった人々が租界で遊ぶ華やかな魔都だったはずの上海は、今回は“抗日戦争(日中戦争)”の戦場になっていました。日本軍に侵攻され、租界の外では戦車に大砲、火事、逃げ惑う人々……。そして日本軍は北京を早急に制圧。続いて天津、そしてついに上海にまで到達していたのです。
わたしはロシア租界に逃げこみました。白系露人のふりをして潜伏し、諜報(ちょうほう)活動に励みました。しかしなかなか間久部少佐をみつけることはできませんでした。
ある日、虹口(ホンキュウ)の日本陸軍ビルから、断髪の美女が颯爽(さっそう)と出てきました。水色の男性用中国服にすみれ色のスカーフ姿で、涼しげなのにどこか孤独な目をしています。わたしは「あっ……」と目を疑いました。
彼女こそ、間久部少佐が二回目に楼蘭にきたとき一緒だった部下の青年でした。じつは男装の女だったようです。わたしの腕の中で死んだ女が、また生きて歩いているのを見るのは、奇妙なことでした。
關東軍や間久部少佐のことを聞きだせるかもしれない……。わたしは旧ロシア帝国の貴族令嬢を装い、彼女――愛新覺羅顯●(王偏に子)(あいしんかくらけんし)こと川島芳子に近づきました。
芳子は阿片(アヘン)を吸うたび、關東軍にだまされて利用されたと、涙ながらに語りました。
「おいら、失った清王朝が復興できると思って、つい日本に協力しちまったのさ。でもおいらは關東軍の男たちに好きなようにされただけだった。だからさ、おいらの煙は西太后のため息なのさ……」
六回目の世界に生きる芳子は、五回目の芳子とはちがい、間久部少佐とは面識がないようでした。歴史が毎回違うように、個人の運命もまた異なっていたのです。
わたしと芳子は次第に親密な間柄になりました。
上海市街戦は、日本軍の進撃と中国共産党や中国国民党のゲリラ活動が相乱れ、緊迫していました。
そしてこの年十一月。日本軍は上海制圧に失敗。中国大陸から撤退しました。
日本は“支那事変(日中戦争)”に負けたのです!
新聞の号外が租界に飛び交い、人々が外に出てきて喜んでいました。芳子が窓からその様子を気だるげに見下ろし、「おいら、すぐにもこの街からおさらばしたほうがよさそうだな」とつぶやきました。
「なにせ日本に協力し続けた裏切り者だからね。もっと南の国、そうさな、インドシナのどこかの島にでも渡って、青パパイヤのお酒を飲みながら余生を過ごそうかな。マリア、キミもこないか。だってキミの国ももうないんだから」
「え、えっ!」
「なにを驚いてるんだい。元貴族と言っても、帝政ロシアはもうないじゃないか」
わたしは「あ、あぁ……」とうなずきました。それから芳子の寂しげな青白い顔をじっとみつめました。
彼女と南の国に行き、二人静かに暮らす……地上には存在しない祖国、楼蘭王国のことをもう忘れて……。
「な、なんで泣くんだい。マリア、どうした?」
そうできたらどんなにいいかと、強く思いました。
でも、わたしにはある予感が胸にありました。
なぜなら、日本は、今日、戦争に負けたのです。
ということは……歴史を変えようとする何者かの手がまた……。芳子と一緒にいたくても、きっとまた……。
びゅっ、と風が吹きました。
わたしは運命に対抗するように、風のほうを振りむきました。ユーラシアの草原に吹き荒れるような激しい風が、再び吹き、睨(にら)みつけるわたしの体を床に強くなぎ倒します。わたしは芳子が立っていたほうに虚(むな)しく手を伸ばしました。でも、また……。ほら、また……。
◇
<あらすじ> 楼蘭の王女マリアの語るところによれば、日本軍によって楼蘭から火の鳥の首が何度も奪われ、そのたびに歴史が改変されているという。外界と隔絶した「永遠の一日」が続く楼蘭は、火の鳥の首が持ち出されると、砂の中に消えた。だが、突風が吹いて時間が巻き戻ると、マリアは18歳の姿であの日の楼蘭に戻っているのだ。楼蘭の首泥棒は最初は犬山だったが、4回目からは緑郎になった。世界が繰り返されるたび、外界での経験を重ねたマリアの心は変化していく。
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