産学連携と知財、大学の課題は? 東大・玉井教授に聞く

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聞き手・嘉幡久敬
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【科学力】~産学連携知的財産

 産学連携。科学技術基本計画や経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)など、国の政策の指針となる文書に繰り返し登場するおなじみの文句だ。産業界との連携を通じて企業から大学にお金を流し込み、研究を活性化させてイノベーションを起こす。新たな市場をひらいたり、特許出願やベンチャー設立などに伴う知財収入を得たりすることで、企業と大学の双方が潤うというのが、税収難に陥った国が描く青写真である。

 産学連携は日本の大学にとって「三つめの使命」といわれる。学術研究を通じて世界や人類に貢献し、教育を通じて社会に人材を送り出してきた「公共財」に課せられた、「必要な金は自分でもうけよ」という使命だ。

 がん免疫治療薬「オプジーボ」の開発をめぐって、本庶佑・京都大特別教授が薬を製造・販売する小野薬品工業に「相応の対価」を求めているのも、この使命の要請に沿ったものといえる。国立大学法人化に伴って国の交付金が減り、じり貧に追い込まれつつある国立大学の基礎研究に対する強い懸念がある。

 産学連携はまた、経済のグローバル化とともに大学に押し寄せた市場化の波の現れでもある。急激な変化にさらされた日本の大学には、優秀な知財の人材確保、グローバルな特許戦略、起業を進める人的ネットワークの構築など、さまざまな課題が山積している。産学連携は日本に根付くのか。知的財産法が専門の玉井克哉・東大教授に課題を聞いた。

法人化に伴う財源難 地方大は「民間」頼み

 ――産学連携はアメリカで先に始まったと聞きます。どのような経緯だったのでしょうか。

 アメリカでは従来、戦争に勝つには国の科学技術力が必要との考えから、戦時中から国が大学に研究予算をつけてきました。世界初のデジタル式コンピューターと言われるペンシルベニア大学の「ENIAC」や、原爆を開発したマンハッタン計画などはその例です。冷戦下では国が大学に潤沢な予算をつける時代が続き、その半面、産学連携の機運は乏しかったということができます。

 アメリカで産学連携が本格化したのは1980年代です。80年に「バイドール法」ができ、国の資金による研究成果でも大学が特許を所有できるようになりました。80年代終わりに冷戦が終結し、軍からの研究費が減ったため、90年代に入ると、大学は研究資金を補うために産学連携に力を入れ出し、現在に至っています。

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 ――日本はどうでしたか…

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