(ナガサキノート)上海の思い出、あの日にすべて消えた

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弓長理佳・24歳
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相川恵美子さん(1927年生まれ)

 昨秋出版された被爆者の証言集を読んでいると、1人の女性が目に留まった。長崎市橋口町の相川恵美子(あいかわえみこ)さん(91)。相川さんの父親は戦時中、三菱長崎造船所の中国・上海の工場で働いていたため、相川さんも何度も上海を訪ねたことがあると書かれていた。

 上海生まれの記者は、当時の上海がどんな様子だったのか、相川さんにどう映っていたのかが気になった。相川さんに取材を依頼すると、こう答えた。「私の話で役に立つんかねぇ。昔のものはなんにも残っていないから」。上海行きの船の切符、上海からこっそり持ち帰った運動靴、家族と撮った写真――。楽しかった日々の思い出はすべて、「あの日」になくなってしまったという。

 つらい思いをしたのは自分だけではないと、相川さんは特に、自身の体験を語ってはこなかった。「でも、あの日のことを話せるのは被爆者しかおらんでしょ。私も90歳を超えたし、話だけでも伝えられたらと思って」。そう言って、取材に応じてくれた。

 相川さんは長崎市岡町出身。カトリック教徒の両親のもと、9人きょうだいの次女として育った。同市本原町の親戚の畑を手伝っていた母や、造船所で働いていた父は多忙で、家にいないことも多かったが、祖母のツネさんが話し相手になってくれた。「たまに祖母の友人も加わって、家の縁側でたわいもないおしゃべりをした。ちっとも寂しくなかった」。1936年に父の転勤で家族が上海に移った時も、相川さんは足の不自由なツネさんを気遣い、三男の高(たかし)さんと長崎に残った。

 相川さんが鶴鳴高等女学校(現在の長崎女子高校)に入った後の1941年、太平洋戦争が開戦。食料を節約しながら暮らすようになり、親戚から野菜や果物を分けてもらうこともあった。その中でもイチジクは甘くて柔らかく、特別なもののように感じた。今でも大好物で、見かけるとつい買ってしまうという。

 しばらくすると、学校では映画館や喫茶店に行くことが禁止された。「戦時中に遊ぶなってことやろね。みんな余裕がなかった」

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 「おとなしくて、怒られるよ…

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