家康に背き流刑、ジュリアの涙 神津島の祭り50回目

有料記事

編集委員・永井靖二
[PR]

 豊臣から徳川へと世が移った17世紀の初頭、家康の棄教の命令を拒んで伊豆諸島の神津(こうづ)島(東京都)へと流された女性がいた。キリシタンの侍女で、その名は「おたあジュリア」。彼女をしのぶ島の祭りがこの18日で50回を迎える。

 1592年から2度に及ぶ豊臣秀吉の朝鮮出兵に加わったキリシタン大名の小西行長が、朝鮮半島から3歳前後の幼女を連れ帰った。貴族の娘で孤児になったという。奥方の菊姫に預けられた幼女は洗礼を受け、「おたあジュリア」と呼ばれた。

 1600年の関ケ原の合戦で西軍の行長は敗れ、京都で斬首に。「才色兼備」のおたあを家康が引き取り、側室に預けた。奥女中になったおたあは隠居した家康がいる駿府城(静岡市)で頭角を現し、重用されたという。

 だが、幕府のキリシタンへの禁教は厳しさを増した。家康は家来らに棄教を迫ったが、おたあは拒否。周囲も説得したが聞き入れず、1612年に伊豆・網代(あじろ)から御用船に乗せられ、伊豆諸島の大島、新島(いずれも東京都)を経て神津島へと流刑にされた。

 これらの故事は、明治維新でキリシタン禁教令が解かれて5年後の1878(明治11)年、イエズス会の布教記録をまとめた「日本西教史」が翻訳され、その中の記述で知られるようになったという。

 イエズス会や大英博物館などが所蔵する宣教師らの書簡からも彼女に関する記述が相次いで見つかっている。ローマのイエズス会記録所で発見された1613年1月付の宣教師マテウス・コーロス神父署名の年度報告書には、彼女は網代を発つ際、この先「最もつらく感じるのは、告解もできず、ミサにもあずかれ」ないことだと、涙ながらに嘆いたとある。

ここから続き

 おたあジュリアのその後はは…

この記事は有料記事です。残り1192文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【お得なキャンペーン中】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら