(小説 火の鳥 大地編)11 桜庭一樹 すべての猫に暖かな寝床が

小説 火の鳥

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 ルイの交渉で、一同は古いジャンク船に乗りこんだ。

 船底は汚れ、なんともいえない臭いがした。百人以上詰めこんだところで、船長が「オーイもういっぱいだ! 重慶からまた戻ってくる。いや本当だ! 先月から休みなしに往復しとる!」と叫んだ。

 大声で嘆く難民たちを港に残し、ジャンク船は揚子江を南西に進みだした。

 川上へユラユラ上っていく。

 緑郎が一同を集め、小声で、

「ここから先は中国国民党との戦闘地域だ。くれぐれもぬかるなよ」

 河岸を振り返りながら、マリアが「是了(ズーラ)……」とうなずく。芳子もつられて河岸に目をやった。

 船に乗れなかった難民の一部が、揚子江沿いの道無き道を、よろめいて歩き始めていた。彼らの背後では工場が火災を起こし、黒煙を上げていた。雪のそぼふる朝の空かなたを、豆粒のような戦闘機が飛びすぎる。

 反対側の河岸には日本兵の群れがいた。戦車や野砲や軍馬も小さく見える。と、戦闘開始の喇叭(ラッパ)が高らかに鳴った。敵陣らしき方角に向かい、ドンッドンッと砲弾を撃ち始める。機関銃の音もパラパラと響く。

 真ん中の揚子江には、日本海軍の砲艦、国旗を掲げた欧米の民間船、難民を乗せた小さなジャンク船が浮かんでいた。波しぶきとともにすれちがう。

 日本海軍の水上偵察機が、轟音(ごうおん)を立てて川面すれすれを飛んできた。敵兵の隠れる丘に爆弾を落とし、去っていく。爆撃の余波が河岸の難民たちを襲い、悲鳴が響いた。ジャンク船の人々も心配して叫び声を上げ、振り返る。そこに水上偵察機が戻ってきて、さらなる爆撃が続いた。

 ジャンク船はどんどん川を上っていく。

 船上で難民たちが「日本鬼子(リーペンコイツー)!」と叫びだす。ルイと芳子も一緒に叫び声を上げる。

 正人がガタガタ震えだした。マリアに「どうしたんですか?」と聞かれて「マ、マリアさん、ぼく、みんなの顔がさっきの男の人に見えるんです……」とつぶやく。

「ぼく、ぼく……どうしたら……」

「弱虫の毛虫野郎め!」

 と、緑郎が正人の首根っこをつかんで揺さぶった。顔をぐいっと近づけ、「生きるのは戦いだぜ。強い者が勝つ! この世ってのはそれだけだ」と嘯(うそぶ)いた。

「兄さん、やめて! ぼくは……」

「正人、聞け! いま中国は弱くなったのさ。だからこうして国土を失うんだ。国も、人間も、おんなじだ」

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 水上偵察機がまた飛んできた。

 瞬間、空が隠れて暗くなり、飛行機の銀色の腹が、手を伸ばせば届くほど近くに迫った。船上の難民たちが悲鳴を上げる。川に飛びこもうとする者もいる。

 緑郎は仁王立ちして飛行機を見送りながら、

「聞け、正人。我が日本は、開国後、欧米の帝国から大いに学んだ。憲法など国造りの方法、産業技術をどんどん取り入れ、富国強兵にも励んだ。もともと、開国前も長らく中国から学び、国や文化を作ってきたからな。大国の知恵を取り入れることに抵抗がないんだ。そして日本は今、東アジア随一の帝国に成長した!」

 と言うと、顎(あご)をかいて「日本も立派になったし、このぼくも出世したしな……」とつぶやく。

「正人、比べておまえは、ぼくの弟なのに、つくづくだめな奴(やつ)だなぁ。幼いころから、汚い猫を拾ったり、貧しい家にお年玉を譲ったり。駆けっこでも、転んだ友達を助けに戻ってしまい、あとで親父(おやじ)に叱られてたな。長じて、大人になったら、プロ、プラ、プレリ……がどうとか……おや、なんだっけな」とばかにしたように言う。

「プロレタリアート(労働者階級)! 兄さん……」

 と正人は怒った。「貧しい家も、転んだ人も、皆平等であるべきなんだ。それに、すべての猫に暖かな寝床が支給されるべきで……。く、くっ……」としゃくりあげる。

 揚子江の濁流はうねっている。河岸では列車が横倒しになり、倒れた軍馬が半ば凍っている。

 上流から商船が列を作って下ってくる。と、ドンッと大きな音がし、水煙が上がった。先頭の商船がバラバラに飛び散り、炎と破片が降ってくる。

「いかん、機械水雷だ……!」

 と緑郎が言った。ジャンク船の上に大きな破片が燃えながら落ちた。真下にいた人が下敷きになり、人型の炎になった。またたくまに火が広がる。

 緑郎と芳子が同時に「おい飛びこめ!」「ドボンと行け!」と指示した。

 凍れる真冬の揚子江につぎつぎ飛びこむ。心臓が止まりそうな冷たさだった。ルイが「ボ、ボク、泳げないの……」と悲鳴を上げてぶくぶく沈んでいく。正人が腕を伸ばしてルイを引き上げ、自分が摑(つか)まっていた木板を譲り、河岸へと力強く押した。と、ざばりと波がきてこんどは正人が水を飲む。のどが音を立てる。正人が静かに川底へ沈んでいく。一瞬の出来事で、誰も気づかない。

 と……。

 緑郎が川底へと潜り、正人の腕をつかんで、強引に引き上げた。「ちくしょう、手のかかる弱虫毛虫だぜ」とブツブツ言いながら河岸まで泳ぐ。

 天気はいいものの、気温は低い。濡(ぬ)れた衣服を風が冷やしていく。

 難民たちとともに、凍えながら河岸を歩きだす。

船をみつけて乗り換え、再び川を進む。数日経つうち一同は疲れ果て、芳子が「まだまだ大陸の先は長いぜ。果たしておいらたち、ぶじロプノールにたどり着けるかな」と震えてぼやいた。正人もうなずき、「砂漠の奥にあるという幻の湖か……」とつぶやく。

 船はやがて、ようやく武漢の港に到着した。中国国民党の臨時政府がある場所だ。

 難民は、陸路を北や南に逃げる者、揚子江を上ってさらに西を目指す者に分かれた。ルイがまた交渉し、調査隊一同は新しいジャンク船に乗りこんだ。

 下流では濁っていた揚子江の水も、少し澄んでいた。見下ろすと、川底に沈む西洋の帆船がうっすら見えた。長い髪をした女も沈んでいる。髪が藻のようにユラユラ揺れていた。

 数日経ち、船がようやく重慶の港に着いた。中国国民党政府の首都となる予定の町だ。

 港から成都に向かう舟を探していると、童顔で痩せた八路軍兵士がルイと正人にすっと近づいてきた。合図し、小声で「重慶に中国共産党の仲間が待機している。調査が終わったらこの町に戻り、報告せよ」と言う。ルイと正人がこっそりうなずく。

 調査隊一同は木の葉のような形をした小舟に乗りこんだ。十人も乗ればいっぱいだ。うねる川を、北西に向かい、ゆっくり上っていく。

 両岸には凍りついた田園が広々と広がっていた。次第に巨大な藍(あい)色の山が連なり始める。山肌には小さな四角い家がぽつんぽつんと見える。川面には幾つもの山々がさかさまに映っていた。

 正人が疲れと寒さで歯を鳴らしながらも、大陸の雄大な景色にみとれ始めた。笑みを浮かべ、緑郎に「ねぇ、ねぇ、兄さん」と声をかけた。

「なんだよっ、毛虫」

「見なよ……。山がきれいだよ」

「ったく、寝言はよしてくれ。戦争中だぞ!」

「あぁ、戦争中さ。でも」

 と正人は山を見上げ、しみじみと、

「――兄さんにはぼくがいるから大丈夫だよ」

「ぎゃ、逆だろうがっ! おまえ、ここまでぼくの足しか引っ張っていないぞ! 正人! 寒さで寝言製造器になっちまったか……」

 そのとき両岸に高さ数百メートルの切り立った崖が現れた。日差しが遮られ、暗くなる。うねうねした川を木の葉のような小舟が心もとなく上っていく。

 一体いつの時代のものか、崖いっぱいに彫られた巨大な釈迦(しゃか)像が現れた。お釈迦様が半ば閉じかけた目でこちらを見下ろしている。

 芳子が感嘆の声を上げた。同乗する難民たちが、目を閉じ、手を合わせた。正人とルイと芳子もはっとし、一緒に手を合わせた。緑郎は「なんだ、フン」と子供みたいにむくれてそっぽをむく。

 豆粒のような人間たちを乗せた小舟は、川を上り続けた。

     ◇

〈あらすじ〉中国大陸のはるか西域に向けて急ぐ火の鳥調査隊の面々。出発から波乱含みだが、隊長の間久部緑郎少佐は成功へ自らを鼓舞。人を刺してしまい落ち込む正人を、慰める笛吹き娘・マリアは、火の鳥との因縁を感じさせる言葉を口走る。一方、京劇役者のルイは、清の皇女川島芳子に、自身が満州族の出であることを伝え、芳子を守ると誓う。南京に着いた一行は、血の残り香が漂う街を足早に通り過ぎ、揚子江をさかのぼる難民船に紛れ込もうとしていた。

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