(小説 火の鳥 大地編)9 桜庭一樹 このぼくを殺そうとは

小説 火の鳥

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  二章 タクラマカン

                 一九三八年一月

 

  その一 大地が燃えている

 

 汽笛が夜を劈(つんざ)いた。

 上海北駅を出発した臨時便9600型蒸気機関車が、ガタゴト揺れながら、西へ西へと進みだした。つめたい鋼鉄のカタマリが悪魔の吐息のような黒煙をたえまなく吐いている。

 火夫台の椅子に、煙に染まって真っ黒な顔をした男が腰掛け、石炭をくべていた。

 夜が濃くなる。機関車はボーッと咆哮(ほうこう)を上げ、間久部緑郎たちを目的の地に運び始めた……。

 

写真・図版

 

「少佐、この臨時便には貨物と人間が半々乗っています。主な貨物は武器と食糧。人間は兵隊……の他、日本軍に協力する中国人も数名。外国人には便民票(搭乗許可証)を携帯させます。これを所持していない外国人は、列車から生きて降ろしません」

 鉄と油と埃(ほこり)の臭いが充満する、列車内。四角い個室の並ぶ乗客室の廊下に、緑郎たちがいた。鉄道省の役人が緑郎に説明すると、便民票を三枚渡す。緑郎が「うむ」とうなずき、マリアとルイに、それから芳子にも、乱暴な手つきで手渡した。

「明け方には南京に到着します。ところで少佐、任務のためとはいえ、今のお姿は中国人と見えます。兵隊を刺激しないよう、個室にいるようお願いしたく」

「了解だ。ご苦労」

 と緑郎は役人をねぎらった。それから扉を開け、ずかずかと個室に入った。

 二人がけの座席が対面にしつらえてあり、正面に窓があった。ぞくっとするほど空気が冷えていた。役人が火鉢を運んできて床に置いた。焼網、麻布に包んだ黒パンを「夜食であります」と差し出す。

 扉が閉まると、芳子が真っ先に、窓際の壁から伸びている簡易机に腰掛けた。「おいらの特等席だよ」とふざけ、手にした便民票を振ってみせる。

 緑郎が「オイ降りたまえ。机が壊れる……」と注意しかけたとき、芳子の背後の窓に、お化けのような真っ黒な顔が映った。ルイが「きゃっ」と叫び、正人がとっさにルイをかばう。

 ガタンと音を立てて窓が開き、冬の凍った風が個室に吹きこんできた。煤(すす)で黒く染まった顔をした男が、外から腕を伸ばして芳子の便民票を奪い、列車の屋根へ姿を消そうとした。

 芳子が振りむいて「やったな!」と叫び、男の眉間(みけん)を狙ってピストルを撃った。弾は大きく外れて窓枠の金具に当たり、跳ね返って、緑郎の右肩をかすめた。

「ひゃ、百発百中じゃなかったのか!」

「おいらホラ吹きなんだ!」

「だから雇いたくなかったんだ! いま死ぬところだったぞ!」

 緑郎と芳子が言い争う横で、正人が「ぼくが取り返してくる!」と窓から身を乗りだし、屋根によじ登りだした。と、列車がカーブに差し掛かり、車体が激しく揺れた。「うわーっ」と正人が足を滑らせる。両足がブランブランとぶら下がるのを、ルイが「正人!」と押しあげてやった。ついで芳子も腕まくりして、窓から屋根へ這(は)い出ていく。ルイも「あっ、皇女さま……」とつぶやいて跡を追う。

 緑郎も続こうとして、ふと振りむき、

「おまえはこないのか? ……マリア」

 マリアは床にしゃがんで、火鉢に金網を乗せ、麻布から黒パンを取りだしたところだった。顔も上げず、「わたしは砂漠のガイドとして雇われました。泥棒退治なんてしません」とぼそっと言う。

 緑郎は「き、貴様……」と言いかけ、言葉を飲みこんだ。素早い動きで窓から屋根に登る。

 マリアだけが残った個室に、パンの焼ける香ばしい匂いが立ちこめ始めた。

 

写真・図版

 

「待てよ!」

 暗闇を疾走する鋼鉄の列車。屋根が暗黒の道のようにうねって伸びていた。芳子は揺れに耐えて片膝(ひざ)立ちになって叫んだが、車輪が起こす激しい音にかき消された。

 二十メートルほど先に真っ黒な顔をした男が立っていた。月明かりがその姿を照らす。振り返ってなにか言った。と、懐から銃を取りだしてこちらに向け、パン、パン、パンと三発連続で撃ってきた。

「危ない!」

 ルイが叫び、鳥のように飛翔(ひしょう)し、芳子の前に立ちふさがった。その声も列車の轟音(ごうおん)にかき消される。

 と、つーっとルイの頰に血が垂れた。弾が危ういところをかすめたのだ。

 ルイは犯人を追おうとせず、芳子を守ることを優先する。それを横目で見た緑郎が「やはりこいつら、何か関係があるのか?」とまた首をひねる。それから上体を屈(かが)め、「待て!」と犯人へと駆けていった。

 黒貂(くろてん)のような敏捷(びんしょう)さで飛びかかり、男をなぎ倒す。

 顔面を殴り、殴り返され、ゴロゴロと転げまわり、しばし争った末、男の懐から便民票を取り返す。

 列車がスピードをゆるめ始めた。

 どこからか「枕木の下の砂利が少ない!」「先の線路を復旧させろ!」と役人たちの声がする。

 揺れが少なくなるにつれ、正人も屋根の上を歩けるようになった。つるつる滑り、転びながら、緑郎のもとに近づく。緑郎に「こいつを取り押さえておけ」と命じられ、「う、う、うん!」と男の両腕を摑(つか)む。

 男の目に涙があふれた。煤で黒くなった顔で正人をみつめ、

「我老家在南京(ンゴローガーラヌージン)(南京に家族がいる)!」

 正人がはっとひるみ、手の力をゆるめた。

 途端に男が起きあがり、銃を握って緑郎に向けた。

 緑郎が気づき、男に体当たりする。二人でまたゴロゴロと屋根の上を転がる。「に、兄さん!」と正人が悲鳴を上げる。

 緑郎の力が弱まっていく。男の銃口が緑郎の口にぐいっと突っこまれる。

 すると緑郎は大きく目を見開き、男を睨(にら)み返した。

 男は憎しみに満ちた表情を浮かべ、人差し指に力を込めた。

 緑郎は、この世の見納めと言わんばかりにさらに目をギロリと見開いてみせた。

 ついに、銃声が……。

 と、そのとき。

 男が無言でドサリと緑郎の上に倒れた。緑郎は油断なく男に目をやりながら、そろりと起きあがった。

 まず、男の背中につき刺さる短刀を見た。つぎに蒼白(そうはく)となった正人の顔を見た。最後に、血に染まってカタカタ震える正人の両手を見た。

「に……に、に、兄さん……」

「なんだ、子供のときみたいな顔しやがって!」

 緑郎が快活に笑った。労(ねぎら)うように弟の肩を叩(たた)く。

「やったな! 弟よ!」

 やがて列車が夜の真ん中で停止した。

 線路の先でランプの光がいくつも揺れ始める。カンカンと復旧作業の音も聞こえる。

 ルイが足早に近づいてきた。正人が震えながらその手を握り、

「ぼく、ぼく、人を殺しちゃった。ルイ……」

「いいや、まだ死んでないぜ」

 と緑郎が男の体を乱暴に起こした。「ぐ、ぐ……」と呻(うめ)き声が聞こえた。

 銃を奪い、男の口に銃口を突っ込むと、緑郎は一切の躊躇(ちゅうちょ)なくトリガーを引いた。

 ズドン、とくぐもった銃声がした。

 正人が「うわーっ」と悲鳴を上げた。ルイは歯を食いしばり、悔し涙をこらえた。

 緑郎は男の体を屋根から思い切り蹴り落とすと、夜空を見上げ、

「このぼくを殺そうとは、百年、いや、百万年早い。アーハハ! アーハ、アーハハハ!」

     ◇

〈あらすじ〉火の鳥調査隊の旅の準備が整った。間久部緑郎少佐を隊長に、緑郎の弟だが実は共産主義に共鳴する正人、その友人で京劇役者のルイ、清の皇女川島芳子、ウイグル語を操る笛吹き娘マリアの5人。それぞれの思惑を抱え、中国大陸の奥地への旅が始まる。

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