(小説 火の鳥 大地編)7 桜庭一樹 この不良崩れのスパイガール
「ところで、キミ」
と、芳子が愛想よく、
「お茶のおかわりをいただけるかな。呼鈴(よびりん)が壊れてるみたいだから、召使を探しにいってくれたまえ」
麗奈が「あら、まぁ! 皇女さまってずいぶん人使いが荒いのね」と明るく笑うと、広間を出ていった。
芳子はそれを見送るなり、ソファからひらりと敏捷(びんしょう)に飛び降りた。「ぜったいダメ、なんて言われちゃ、よけい気になっちまうのが人間だヨ」とつぶやき、ポケットに手をつっこむと、鼻歌交じりに階段を下りていく。
さて、どれだけ経ったか……。
「まるで井戸みたいだ。それにひどく寒いや」
ようやく階段が終わった。壁に洋燈(ようとう)が瞬き、障子の扉を照らしていた。
檜(ひのき)の表札があり、毛筆で大きく、
――〈鳳凰(ほうおう)機関〉
と書かれている。
芳子が「鳳凰って……?」と首をひねる。
人差し指を舐(な)めて障子にぷすっと穴を開ける。片目をつぶり、覗(のぞ)く。
薄暗い和室が見えた。ぼんぼりの灯(あか)りに、壁から下がる二つの遺影が照らされている。
一人はまだ三十代と見える着物姿の女。ぱっちりした目に丸っこい鼻、気の強そうな顔つき……。間久部麗奈とそっくりだった。
「さては麗奈サンのお母上かな。ヒロシマ出身で千里眼だったと昨夜聞いたがな」
穴を覗く角度を変え、隣の遺影も見てみる。
こちらは五十代らしき威風堂々とした男性だった。日本の軍服を着ている。
芳子がはっと息を呑(の)み、
「海軍の山本五十六閣下じゃないか! 昨年末上海で客死された……! し、しかし、閣下と三田村財閥の奥方の遺影が、なぜ並んでるんだ?」
そこに、男たちのくぐもった声が聞こえてきた。「むっ、中に誰ぞいる!」と芳子は色めき立った。覗き穴を人差し指でぐいっと広げる。
――広い和室の奥に、謎めいた東洋人の男が三人立っていた。
丸縁のロイド眼鏡をかけた生真面目そうな男が、両腕を広げ、
「つぎに鳳凰が飛ぶのはいつだ!」
と叫んだ。
その隣に、黒マント姿の小柄な男がいた。いかにも変わり者らしく、大福を手づかみで食べながら、
「焦ったって、まーだわからんさ」
とふざけ声で答える。ロイド眼鏡の男が「君、口に物を入れてしゃべるな」と注意する。すると黒マントの男は、わざと口に大福を詰めこんでみせた。
三人目の男は、背が高く、にこにこして愛想がよかった。「あの男ならすぐに帰還してくれましょうよ」と言いながら、黒マント男の口の周りを台拭きでグイグイ拭いている。
芳子は後退(あとずさ)りしながら「か、關東軍参謀長に参謀副長じゃないか。あと一人は誰だ……? なぜ上海の財閥家の地下室にいる?」とつぶやいた。
それから顔を真っ青にし、
「お、おいら、こんなところにいちゃいけないよ。好奇心害死猫(ホージシンヘーサモー)(好奇心が猫を殺す)って言うよな。ここはまるで關東軍上海司令部だ。これ以上知っちゃまずい……」
と、暗い石階段を音もなく駆けあがっていった。
隠し扉から飛びだした途端、屈強な黒衣の召使に首根っこを強く摑(つか)まれた。持ちあげられた芳子の両足が床からぶらんと浮く。
麗奈がぴょんぴょん跳ねながら「ちょっと、お姉ちゃまを離してちょうだい」と叫んでいる。
背後から、低く重たい男の声がした。腹の底をつめたい手で摑まれるような、不吉な力強さのある声だった。
「ここには誰も入れるなと言ったぞ!」
麗奈が泣きそうな声で、
「お父様。だ、だって。でも、その」
芳子が「むっ、しかもこの声は。泣く子も黙る三田村要造殿だ……な、南無三!」と目を瞑(つむ)る。
「あのね、お姉ちゃまはね、隅っこや細い通路がお好きで、酔っぱらうとあちこち潜ってしまわれるの。なんにも悪気はないお方よ……」
「口答えをするな。――鳥就在籠子里等着口畏(口偏に畏)食口巴(口偏に巴)(ニォージュラロンズリデンライュザヴァ)(鳥は鳥カゴで餌を待て)!」
「アッ……」
と麗奈が短く叫び、「……はい、お父様。申しわけありません」とうなだれた。
天井からつりさがる金の鳥カゴが動いた。黄緑の小鳥がばさっ……と短い羽音を立てた。
黒衣の召使が、芳子の首根っこを摑んで持ちあげたまま、大股で歩きだす。芳子は左右にぶらぶら揺られながら、「あわわ!」と情けない悲鳴を上げた。
召使が中二階への大階段を上っていく。
「おいらをどこに連れてくのさ? ま、まさか、消されるの? 地下でなんにも見てないよ! ホントだよ! おいらはね、おいらはただの……」
こちらは中二階の応接室。
向内大将が、机を挟んで向かいあう間久部緑郎に「その者の名は、愛新覺羅顯王子(王偏に子)(あいしんかくらけんし)。元清国の皇女様で、通称川島芳子だ」と言ったとき、ちょうどドアが開き、召使に首根っこを摑まれた芳子が「ただのゴロツキだい!」と喚(わめ)きながら姿を現した。
ヒョイと放られ、「わぁー!」と悲鳴を上げ、机に広げられた地図に落っこちてくる。
緑郎が顔をしかめて見下ろし、「閣下。まさかこの不良崩れのスパイガールのことでありますか……」とあきれ声を出した。
「うむ、そうだ。今回のガイドには適任である」
「じ、自分にはそうは思えませんが」
芳子のほうは、辺りを見回すなり「どうやら助かったようだな。こうなったらどんな任務でもござれだ」と上機嫌になり、机からひらりと飛び降りた。
向内大将は地図のよれを几帳面(きちょうめん)に直しながら、「間久部くん。改めて言うが、この任務の旅程は四つに分けられるのだ」と話しだした。
緑郎がはっと背筋を伸ばす。芳子も椅子の背にあごをおき、聞き始める。
「一つ目は、上海から南京までの道だ。揚子江沿いに鉄道があるものの、日本軍の進撃を受けた中国国民党が逃走時、線路を破壊していった。現在、山田部隊(鉄道省技術者集団)が鋭意復興中だ。二つ目は、南京から重慶までの道だ。やはり揚子江沿いだが、鉄道はなく、日本軍と中国国民党が今まさに戦闘中だ。なんとかして船に乗り、揚子江を上流へと上るしかない」
「はっ、弟の正人と、信頼できる中国人一名にガイドさせる予定であります」
「うむ。三つ目は、重慶から北西へ山岳地帯を登る道だ。ここからは、中国国民党に加え、モンゴル族、軍閥、旧ロシア帝国の残党などが跋扈(ばっこ)する、じつに複雑なエリアで……」
「そっか。オジさん、おいらを呼んだのはそのためなんだね。おいらはモンゴル族の将軍の息子と所帯を持ってたし、軍閥にもロシアにも顔が利くよ」
「そうだとも。そしてさらなる問題は、四つ目のエリアだ。ウルムチから南へ。タクラマカン砂漠を進み、幻の湖ロプノールへ向かうのだ。ちなみに、かつて湖畔に楼蘭という小国があったが、西暦一五〇〇年ごろ明(当時の中国の大国)の急襲を受け消滅。以来、周辺に集落はほとんどない。つまりこの地点に到達するためには、ウルムチでウイグル族の商人と交渉し、ラクダ、食糧、水を買い付けて……」
「ウイグル族と交渉か。ひゅう!」
と、芳子が口笛を吹いてみせた。
「おいら、ちょいとあてがあるぜ。砂漠地方からはるばる上海にきた子がいてね、ウイグル語を話せるのさ。えぇと、名前は……何だっけな……」
と芳子は首をひねってしばし考えこんだ。それから手を叩(たた)いて、
「――マリア! 笛吹き姑娘(グーニャン)のマリアさ」
〈あらすじ〉 關東軍少佐間久部緑郎は、妻・麗奈の父で「火の鳥」調査隊のパトロンの三田村要造の屋敷を訪れ、向内大将と密談。同じ頃、上海マフィア黄の指示で三田村邸に現れた川島芳子は、地下へ続く階段を見つける。麗奈に絶対に入るなと言われるが……。
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