(小説 火の鳥 大地編)6 桜庭一樹 スキだけど、裏切るの

小説 火の鳥

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 三階の廊下に大きな絵画が飾られていた。燃える太陽に照らされる黄色い砂漠の絵だ。マリアが一人、絵を見上げて、

「         (タクラマカン)! 懐かしき我が西方の砂漠よ……」

 とつぶやく。

 そこを、芳子がふと通りかかって、

「おや。キミはウイグル(中央アジア遊牧民)語を話すのかい。おいら、てっきりロシア人かと思っていたよ」

「ええ、話せます。         の語源は“一度入れば二度と出られない”という説があるんです。それほど過酷な大地だと」

「そうか……。ふむ、さてはこの辺りがマリアの故郷かい? それが上海なんて、ずいぶん遠い土地まできたもんだね。まっ、誰にでも故郷はあらぁ……」

ここから続き

 と芳子が言いかけたとき、角を曲がり、黄金栄(ワンジンヨン)の部下が姿を現した。犬にするようにアゴをしゃくって芳子を呼ぶ。芳子は「やれやれ、また任務か」とつぶやき、細いからだを柳のように揺らして廊下を歩いていった。

 マリアも反対側に歩いていく。蒲公英(たんぽぽ)色の絨毯(じゅうたん)の階段をするすると降り、裏口から大世界を出た。

 豪奢(ごうしゃ)なビルも、裏側から見ると、不気味なコンクリートの塊に過ぎなかった。氷のような一陣の風が吹き抜ける。マリアは腰から下げた笛を揺らし、どこかに立ち去っていった。

 

 

 そして同じころ、租界の隅の小さな路地では。

 月明かりが宵の雲に隠され、ぐっと暗くなる。どこかの窓辺から寂しげな胡弓(こきゅう)の音が聴こえてくる。

 爆撃で半壊した建物の隣に、茶色い老房子(ラオファンズ)が残されていた。料理と糞尿(ふんにょう)と動物の臭いが入り混じって辺りに漂っている。藤棚の垂れこめるバルコニーで、小ぶりのニワトリが二羽、並んで眠っていた。

 そのバルコニーにルイが出てきて、ニワトリのフンだらけの汚い木の椅子にひょいと腰掛けた。

 両腕を広げ、巧みに操り人形の真似(まね)をしながら、「正人。出会った日からずっと、君はボクに優しくしてくれたね」とひとりごちる。

 それから「でも」と室内を振りむく。

 古い書机には思想書が山と積まれ、壁から色とりどりの京劇衣装がぶら下がっている。壁際に無骨(ぶこつ)な二段ベッドがあり、上段で正人が寝息を立てて眠っていた。

「イ尓(人偏に尓)救的狗不見得是好東西(ノンジューディゴバジデズホードンシ)(君が助けた子犬が正直者とは限らない)!」

 とルイが震える声で叫んだ。

 ゆらりと立ちあがり、木製の手すりにもたれる。長めの前髪が額に落ちかかった。女性的な声色で、どこからか流れる胡弓の音に合わせ、歌いだす。

「スキだけど、裏切るの。

 スキだから、裏切るの。

 それが、ボクの愛し方……」

 それから両手のひらで顔を覆うと、この世のすべてのものから自分の表情を隠した。

 

 

  その三 秘密結社〈鳳凰(ほうおう)機関〉

 

 翌朝。

 虹口(ホンキュウ)の空は、青く晴れ渡っていた。

 梅林の広がる公園を、着物姿の女が乳母車を押しながら歩いている。神社からは参拝客が柏手(かしわで)を打つ音が聞こえてくる。マーケットには生魚や味噌(みそ)など日本の食材が並び、買い物客が忙しげに行き来する。

 天秤棒(てんびんぼう)をかついだ豆腐売りが、掛け声をかけ、晴天の通りを渡っていく。

 その横を、間久部緑郎を乗せた黒塗りの車が、びゅんっと風を切って通りすぎた。

 虹口の奥にある三田村家。周囲に連なる、漆喰(しっくい)の壁に赤いらかの屋根をした小ぶりな洋館とちがい、黒い瓦屋根を輝かせる日本風の大邸宅である。

 車が門をくぐり、玄関の前に停(と)まる。運転手がうやうやしくドアを開けると、緑郎は颯爽(さっそう)と降りたち、

「ふむ、三田村家か! 初めて見たときはまるで要塞(ようさい)みたいだと思ったが、こうして見ると、なに、たいしたことはないぜ」

 とニヤリと笑ってみせた。

 黒衣の召使の案内で、一階の広間に通される。

 広々とした吹き抜け天井。中央に大テーブル、横にソファセットがあった。壁に掛け軸がかけられ、隅には蓄音機と黄緑の小鳥を入れた鳥カゴがあった。

 しばらく待たされた後、中二階に向かう二股の大階段を登り、応接室へ入った。

 ほどなく、向内大将が「間久部くん。ご苦労!」と忙しげに入ってきた。緑郎がはっと敬礼する。

「早速だが、ロプノール行きの旅程を詰めねばな」

 と、向内大将がアジアの地図をバサリと音を立てて広げた。

 ――北にはロシアの凍った平地。その下に雄大なモンゴル平原。眠れる獅子たる中国。西には乾いたチベット高原。南には灼熱(しゃくねつ)のインド。そして、そして……! 薄茶色の地図いっぱいに、広大なるユーラシアの大地が広がっていた。

 緑郎は、油断なく居住まいを正した。向内大将がうむとうなずき、

「まず上海を出て、揚子江沿いに西へ、西へ行け! この地点……南京までは我が日本軍が制圧している。南京を出てさらに西に向かえ。なんとしても、中国国民党の支配下たる重慶までたどり着け」

「はっ」

「そして重慶から、北西へ! 山岳地帯を抜けて、蘭州へ、ウルムチへ……。そしてそこから南へ行け。生きるもののいない死の砂漠、タクラマカンへ!」

「はっ!」

 緑郎は緊張しつつ、ビシッと敬礼した。向内大将は頼もしそうに緑郎を見やって、「南京から先は、日本人とばれれば、絶対に命はない。土地に応じた複数のガイドが必要となる。こちらでも山岳地帯の軍閥に顔の利く特殊なガイドを手配したぞ」と言う。「何人のどういう男でありますか?」「男ではない」「なに、では軍閥と関わりを持つ女……。いったい何者でありますか?」と緑郎が不審そうに聞いた。

 向内大将がゆっくりと腕を組んで、

「うむ。その者の名は、な……」

 

写真・図版

 

 三田村家の玄関前。扉に額を押しつけたひどくだらしない姿勢で、川島芳子が立っていた。

 くしゃくしゃの男性用中国服に、真っ白な毛皮のコート姿。白酒(パイチュウ)の匂いをプンプンさせながら、

「おいら、朝はこんなザマさ……。アァ眠い……」

 と、誰にともなくぼやく。

 召使に一階の広間に通され、眠気覚ましの中国茶を出される。けだるくソファに寝転んで待つ。

 ほどなく、ひまそうにきょろきょろしだし、

「おや、こいつはなんだ?」

 ソファの奥の壁に一メートル四方の鉄製の小扉があった。鳳凰の形をしたドアノブがついている。たまたまなのか、五センチほど開いていた。

 芳子は首を伸ばして覗(のぞ)きこみ、「納戸じゃあないようだな」とつぶやいた。

 扉を開けてみる。奥に細い石階段が見えた。暗い地下に向かって、トグロを巻く黒蛇のようにどこまでも伸びている……?

 芳子は床を見下ろし、「謎めいた地下室のようだぜ」とつぶやく。

 そこに、麗奈も眠そうな顔つきで入ってきた。「あら、お姉ちゃま」とうれしそうに声をかけたものの、扉が開いているのに気づくと真っ青になり、「そ、そこはダメよ!」と叫んだ。

「なんだい。藪(やぶ)から棒に大声を出して?」

「だって、パパがぜったいダメって叱るんですもの。あたしも一度も入ったことないの」

「へぇ……。そうかい。おいら、よーくわかったよ」

 と、芳子は神妙にうなずいてみせた。

     ◇

 〈あらすじ〉 日本軍は、關東軍少佐の間久部緑郎を隊長とする「火の鳥」調査隊を結成。立身出世に燃える緑郎は、兄の威信を見せつけるため不仲の弟・正人をガイドに指名。兄に反発しながらも引き受けた正人だが、友人のルイとともに抗日運動に身を投じており、中国共産党の八路軍に情報を流す。しかし、京劇役者のルイは、劇場を仕切る上海マフィアのボス・黄金栄のしもべだった。黄は火の鳥の力を横取りしようとたくらむ。そして、同じく思うままの川島芳子も日本軍のもとに送り込んだ。

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