少ない空襲報道「抵抗としての投書」 早乙女館長退任へ

有料記事空襲1945

聞き手 編集委員・伊藤智章

 作家の早乙女勝元さん(87)が6月、東京大空襲・戦災資料センター館長を退任する。10万人が亡くなった1945年3月10日の東京大空襲を生き延び、炎の夜を語ってきた半生。戦争関連の本を100冊以上出しただけでなく、毎年のように朝日新聞の「声」欄に投稿し、30回以上掲載された。どんな思いに動かされてきたのか。(聞き手 編集委員・伊藤智章)

始めた新聞への投書「私は忘れない」

 《3月10日といっても、今ではピンとこない人が多いだろう。無理もない。あれから、25年もすぎてしまったのだから。しかし、私は忘れない。(1970年3月「声」)》

 ――この年、「東京空襲を記録する会」の活動を始めました。

 「当時は、東京大空襲に関する報道や出版が極端に少なかったのです。会の事務局長を務めた評論家の松浦総三さんは『戦後22年間の朝日新聞は、東京大空襲について数回しか書かなかった』と指摘しています。関東大震災の記事は毎年載るのに、なぜ書かないのか? 占領時代は報道規制があったが、その後も少ないのはなぜか。これでいいのか。投書を始めたのは、ささやかな抵抗からです」

 ――朝日を含めなぜメディアは取り上げなかったのでしょう。

 「確かに、私たちは世界初の核爆弾の被害者ではありません。でも熱線や爆風で多くの人が傷つきました。死者にとっては、原爆だろうが、通常の爆弾だろうが同じです。一晩で10万人が殺された東京大空襲は、世界最悪の無差別都市攻撃です。大戦末期のドイツ・ドレスデン空襲の死者3万5千人に比べても格段に多い。あの時、何が起きたのか。なぜこれほどの被害が出たのか。多角的に調べ、証言を集め、記録を残すべきなんです」

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 ――記録の動きは70年以前はなかったのですか。

 「東京都がまとめた『東京都戦災誌』(53年)には、庶民の生の声は載っていません。ベストセラーとなった岩波新書『昭和史』(59年)には『東京、大阪など大都市のほとんどを焼きはらい』とあるだけです。これであの地獄が伝わるでしょうか」

 「庶民の体験記を集めようと、街頭でチラシをまき、1万枚を超える手記が集まりました。当時の美濃部亮吉都知事に働きかけ、全5巻の『東京大空襲・戦災誌』(73~74年)が実現しました。うち、1、2巻は全て手記です。運動は全国に広がり、80~81年には『日本の空襲』全10巻を出版し、各地で戦争や平和資料館を造る運動につながりました」

 ――庶民の生の体験を聞いて、何を思いましたか。

 「猛火に囲まれた橋の上で、赤ん坊と娘の上に覆いかぶさった父と母。火の粉が入り、真っ赤だった赤ん坊ののど。空襲直前に産んだ赤ん坊は産院の医師や看護師の奮闘のおかげで守られたものの、12人の子どもと夫ら大家族全員を亡くした母親……。想像を絶する話ばかりで、メモを取りながら顔を上げられませんでした。聞いた者には、伝えていく責任があると思いました。10代で働きながら小説を書き始めた私は、筋の面白さに走りがちでした。でも足元を見つめ、人間の真実を追求しなきゃいけないと、改めて思いました」

■後ずさりする作業であっては…

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