(ナガサキノート)6歳の少年が見た「戦争という魔物」

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小川直樹・37歳
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池崎善博さん(1939年生まれ)

 「連日飛行機が飛んで来て、家でのんびりなんか遊べなかった」。長崎市若竹町の池崎善博(いけざきよしひろ)さん(80)は2018年の夏、人前で初めて自身の戦争体験を語った。高校や短大で生物を教えてきた経験を買われ、長崎県長与町で開かれた夏休み中の小学生向けの講座に招かれた。当初は屋外で散策する予定が、高温のため屋内に変更に。植物採集の仕方を話した後、少し時間が余った。「それじゃあ少し原爆の話を」

 突然だったが、子どもたちは静かに聞いた。ただ質問はほとんど出ず、どう受け止められたか分からなかった。「いまの子どもたちには、あまりに遠い話なんだなと感じた」

 1945年8月、爆心地から2・8キロの長崎市片淵町の自宅で被爆した。幸い家族に被害はなく、原爆投下直後の凄惨(せいさん)な光景も見なかった。当時を語るべき人間は自分ではないと思ってきたが、近年は証言集や高校退職者の会報に体験を寄稿している。「戦後70年が過ぎ、もうすぐ体験を直接聞けなくなる。6歳が見た体験でも残さないと、と思った」

 池崎さんは被爆当時、両親と弟妹2人の計5人で暮らしていた。末の弟だけが戦後に生まれた。

 父の善夫(よしお)さんは三菱長崎造船所で働き、比較的裕福な家庭だった。善夫さんの趣味は写真で、ドイツ製のカメラを持っていて、家族をよく写していた。当時はモノクロ写真。暗室代わりに自宅の木製の雨戸を閉め切り、薬品を自分で調合して現像した。池崎さんも手伝った。ただ、一つ違和感が記憶に残っている。写真にはすべて赤色のゴム印が押してあったからだ。基地や艦船などが写っていないか、家族写真まで軍の検閲を受けていた。

 家にあった手回し式の円盤レコードは池崎さんの楽しみの一つだった。レコード表面は黒い硬質ゴム製。戦争が始まると、ゴムが不足したからか、レコード盤は少しずつ小さくなっていった。中身の材質も粗悪な厚紙のようなものに変わっていった。

 「歌も童謡じゃなくもちろん…

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