関西の小劇場、熱気に包まれた平成 長塚圭史も憧れた

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増田愛子
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 1980年代から90年代、関西は小劇場演劇の熱気に包まれた。そのブームの中心にいたのが、大阪市内にあった中小の劇場だ。しかし、こうした劇場の多くはすでに閉館し、後継と目された劇場も短命に終わった。劇団を作り、公演規模を大きくしていく成長物語が消えた今、劇場は何を目指すのか。「劇団☆新感線」のいのうえひでのりや、「阿佐ケ谷スパイダース」の長塚圭史ら、東西の演劇人へのインタビューもまじえ、次代の劇場の在り方を考える。

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 3月下旬、大阪市内で第25回OMS戯曲賞の冊子の出版記念会が開かれた。新人発掘に加え、受賞者から岸田国士戯曲賞作家を輩出するなど、中堅作家への刺激ともなってきた賞。関係者からは、この戯曲を生んだ、今はなき劇場、扇町ミュージアムスクエア(OMS)を懐かしむ声が上がった。

 昭和の終わりから平成の初め、関西からは、小劇場演劇の人気劇団が次々と誕生。やがて全国区になっていった。その広がりは、OMSはじめ、中小の劇場の力を抜きに語ることはできない。

 その先駆けとなったのが、1978年、大阪・梅田のファッションビル・阪急ファイブの8階を改装して開館した、200席弱の小劇場「オレンジルーム」だ。

 つかこうへいが「熱海殺人事件」で岸田賞を受賞したのは、74年。その毒のある笑いが爆発的な人気を呼び、東京では小劇場演劇が若者文化の一つとして市民権を得つつあった。一方、関西には、そうした表現の受け皿となる場が圧倒的に不足。プロデューサーの故中島陸郎は、そこに着目した。

 目指したのは、いわゆる貸し…

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