戦後抹消命じられた「戦争ごっこ」 80年前の映像記録

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若井琢水
【動画】中村小学校では、「戦争ごっこ」に学校を挙げて取り組んでいた=若井琢水撮影
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 戦前から終戦近くまで、全国各地で戦意高揚のために兵隊のまねをする「戦争ごっこ」が流行した。栃木県真岡市の中村小学校で、学校を挙げて取り組んでいる様子の映像が、朝日新聞社が当時制作した子ども向けニュースから見つかった。

陸軍幹部が視察も

 全国的にも珍しい取り組みで、陸軍幹部が視察に来るほどだったという。記者が映像を頼りに取材を進めると、終戦後に処分命令が出ていた写真や動画フィルムを、当時の校長がひそかに自宅に持ち帰って保管していたことがわかった。

「とつげきー!」校庭に響く声

 刀剣を頭上に突き上げた部隊長の号令が校庭に響く。「ぜんたーい、とつげきー!」。幼い声を合図に、鉄砲を抱えて伏せていた子どもたちが一斉に前方へ飛び出す。国立映画アーカイブ(旧・東京国立近代美術館フィルムセンター)に所蔵されていた映像には、当時の戦争ごっこの様子が克明に記録されている。朝日新聞が1938~43年に制作した子ども向けニュース「アサヒホームグラフ(当初はアサヒコドモグラフ)」のものだ。

 戦車が土煙を上げて動き、プロペラ戦闘機が入り乱れる。それらの乗り物も、激しい音を上げる高射砲や機関銃も全て、竹や木で自作したおもちゃ。きびきびと動いているのは、10歳過ぎの小学生たちだ。

 学校を挙げた戦争ごっこを行っていた中村小は、1905年に「中村尋常高等小学校」として開校した。戦争ごっこは昭和初期、軍事色が強まっていく中で始まったとみられる。35年ごろには児童500人余りが在籍していたといい、この時期の写真として整列して鉄砲を構える児童の姿を撮影したものが残っていた。

木と竹で手作り、音も再現

 太平洋戦争の始まった41年ごろは、戦争ごっこも盛んに行われた。当時在校していた男性によると、訓練は同校に勤めていた川又圭教員の指導で行われた。鉄砲や飛行機などは川又教員と高学年の児童の手作りだったという。

 鉄砲は木と竹を組み合わせ、戦車や戦闘機は木箱を分解して一からくみ上げたという。ガトリング砲は縦に切り込みを入れた竹をひもでくくって、ハンドルを回すと竹同士がぶつかるように細工して、音まで再現していた。

 見つかった動画に映っていたのは、この頃の戦争ごっことみられる。同校はこの時期に「中村国民学校」と改称された。男性によると、初等科の6年生が兵士を務め、高等科の女子生徒も救護隊として参加していた。政府や陸軍の要人を学校に招いて、繰り返し行われたという。

戦局の悪化で徐々に…

 ミッドウェー海戦の敗退から戦局は悪化し、同校の戦争ごっこもあまり行われなくなった。確認できる最後は44年で、当時初等科6年生だった松本佳夫さん(86)が部隊長を務めた。

 松本さんは、川又教員の人柄を「教育熱心で、軍隊についての紙芝居を自作するほど多才な人だった」と振り返る。卒業後も交流は続き、教員を辞めた後は地域の公民館に勤めていたという。教師としての熱意から厳しさもあったが「むやみに暴力をふるう人では決してなかった」

 校庭で煙幕をたいて匍匐(ほふく)前進をする訓練をしたが、この頃には手製の戦車やプロペラ機は壊れていて、残っている鉄砲だけで訓練を行ったという。披露したのは秋の運動会の1回だけだったという。

「軍人に対する憧れあった」

 44年に行われた戦争ごっこを見ていたという当時2年生だった横松栄一さん(83)は、軍事色が強かった当時の世の中の雰囲気を覚えていた。集団登校すると、校門前には軍服のような服装の上級生が待っていた。正門から校舎までは歩調を合わせて行進。12月8日の太平洋戦争開戦日にあわせ、毎月8日は近くの中村八幡宮で必勝祈願した。運動会で上級生が戦争ごっこをするのを見て「軍人に対する憧れもあった。いずれは自分たちもやるものと思っていた」と、当時の子どもたちの気持ちを思い返す。

当時の校長、貴重な資料を隠して保管

 戦争ごっこは終戦とともに終わりを迎えた。戦中教育への追及を恐れた県は、終戦後に学校の資料などを焼却するよう命令を出した。戦争ごっこの記録もこのとき失われるはずだったが、当時の篠崎九平校長が写真や動画などの資料を自宅に隠して消失を免れたという。写真の多くは家族から真岡市に寄贈され、「真岡市史」にも掲載されている。

 篠崎校長は1932~45年…

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