(ナガサキノート)焼け落ちた養育院、シスターも犠牲に

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田中瞳子・25歳
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田中ヤスヨさん(1934年生まれ)

 「みんなほとんど亡くなってしまいよった。懐かしかねぇ」。田中(たなか)ヤスヨさん(84)は取材中、モノクロの集合写真に何度も目をやりながら、つぶやいた。どんな人で、今どうしているのか……。写真に写る人たちのことを、スラスラと話す記憶の鮮明さに驚いた。

 被爆したのは11歳のとき。爆心地から約1・8キロ離れた長崎市本原町2丁目(現在の石神町)の浦上養育院にいたときだった。

 「後にも先にもあんなに怖い日はない」。養育院の押し入れの中から見た、土ぼこりの暗闇。爆心地の方から逃げてきた焼け焦げた人たちの行列。遺体のにおい。あの日のことは、今でも思い出すという。

 人前で話すことが好きではないという田中さんは今まで、表立って被爆の記憶を語ったり、手記を書いたりはしてこなかった。「伝えておかなきゃとは思わないけど、知りたいなら話すよ」。そう言って、怖かったあの日のことや、養育院での記憶を語ってくれた。

 田中さんは長崎市大浦町で、7人きょうだいの末っ子として生まれた。家族みんなで一緒に生活した記憶はない。

 父親は、田中さんが生まれる3日前に亡くなったという。母は田中さんを背負いながら働きに出ていたが、2歳のころ、浦上養育院に預けられた。神父さんに養育院を紹介されたと聞いている。浦上養育院はこの地区の潜伏キリシタンで、「浦上四番崩れ」で流刑になり、家族を失いながらも帰郷した岩永マキ(1849~1920)が始めた。国内の児童養護施設の先駆けとされ、今も続く。

 田中さんが物心ついたころから、養育院が「おうち」で、そこで暮らす人たちが家族だった。食事の時はいつも、食堂の長いテーブルを20人ほどで囲んだ。お正月には、シスターが節分の豆まきのように投げるミカンやお菓子を、みんなで騒ぎながら拾った。遊んだり、けんかしたり、いたずらをして怒られたり……。「きょうだいがいっぱいいるような感じ。にぎやかで大家族みたいでね。ただ、みんなとわいわい遊んだ記憶しかないねぇ」

 田中さんは養育院での暮らしをいつも懐かしそうに、そして、うれしそうに振り返る。あの日以降の一時期を除いては――。

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 1945年8月9日。田中さ…

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