破綻、再編… 流通大手、平成の次の時代に残された課題

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編集委員・多賀谷克彦
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小売り激変

「アポがキャンセルに」

 2000年7月12日、私は東京・丸の内にいた。当時は大阪本社経済部に籍を置く広島駐在の記者だった。瀬戸内のコンビナートにある石油会社などを取材するため、出張に来ていた。

 昼前だったろうか、携帯電話が鳴った。大手アパレルの知人からだった。「今日、予定されていたそごう役員へのアポがキャンセルになった。何か知らないか」

 当時のそごうは、業績が悪化し、金融機関に約6300億円の債権放棄を求めていた。しかし、準主力の新生銀行が旧日本長期信用銀行時代の貸付金の放棄に難色を示し、国(預金保険機構)が肩代わりすることが決まっていた。

 これに「税金で民間企業を救済するのか」という世論が広がり、与野党からも救済の白紙撤回を求める圧力が高まっていた。

 思い当たる取材先に電話を入れたが、らちが明かない。次にかかってきたのは「そごうが民事再生法を申請した。手伝ってほしい」というデスクからの電話だった。

 事実上の倒産である。負債総額は約1兆8700億円。金融機関を除くと過去最大の倒産だった。

 私は丸の内近くの神田にある経済部の取材拠点に急いだ。広島に赴任する前は、大阪で流通業界を担当していた。そごうも重要な取材先だった。多店舗化を急ぐあまり、人材育成が間に合わず、取引先任せの売り場になっていた。経済面に、経営破綻(はたん)に至った背景を営業面から書いた。

 平成の日本経済は地価の下落、株価の暴落で始まった。物価が上がらないデフレに陥り、給与が増えない消費者の購買意欲もなえた。そして、金融機関の不良債権処理が始まった。バブル期、金融機関が貸し込んだ先が、オーナー経営者が君臨した流通業界で、そごうもその一つだった。

 私は2カ月後の9月、東京経済部に異動した。担当は流通業界。待ち構えていたのは、相次ぐ経営破綻と業界再編だった。

涙ながらのあいさつ

 2000年9月、私は大阪経済部から東京経済部へ異動した。最優先課題は、2カ月前に倒産したそごうの再建計画を他社に先んじて書くことだった。

 焦点は営業を続けていた22店舗のうち、どの店を閉めるか。そごうは地域の駅前再開発で進出した店が多い。地域経済への影響も大きく、社内の地方支局の関心も高かった。重苦しい日々が続いた。

 再建は、西武百貨店の社長、会長を歴任したそごう特別顧問の和田繁明(85)に任されていた。後に聞いた話では、和田に白羽の矢が立ったのは、大手アパレルの実力者が、そごうの主力銀行、当時の日本興業銀行の頭取西村正雄(故人)に紹介したからだった。

 また、和田の人選だけではなく、金融機関では、多額の有利子負債を抱えていた西武百貨店とそごうを統合させ、再建するという案が、そごう破綻(はたん)の2~3カ月前から練られていたとも聞いた。

 西武の主力銀行は、後にみずほフィナンシャルグループとして興銀、富士銀行と統合することになる第一勧業銀行だった。つまり流通業界の再編は金融機関の再編、不良債権処理と表裏の関係だった。

 「夜討ち、朝駆け」取材が始まった。和田らの当事者の口は重かった。店舗の閉鎖は従業員の雇用にも直結する。取材対象はそごう、西武関係者だけではなく、再建を担う弁護士にも広がった。

 そごうの再建計画は10月に発表された。東京の錦糸町など8店が閉鎖され、グループ社員の3分の1にあたる3100人を削減する厳しい内容だった。和田は会見で「絶対二次破綻しない体制を考えた」と説明した。

 翌年6月、そごうは西武と提携する新体制で営業を始めた。本店扱いの横浜店では、そごう出身の店長、新部剛夫(73)が「生き返ったそごうは販売のプロを目指す」と語った。涙ながらのあいさつが今も忘れられない。

カリスマの退場

 ダイエー創業者の中内功(故人)に最初に会ったのは、2000年1月だった。大阪経済部員の私は連載「航跡・新世紀」を担当していた。お題は「流通革命」。中内の生き様から小売業のこれまでとこれからを書く取材だった。

 ダイエーの本社機能があった東京・芝公園の通称「軍艦ビル」の一室に通された。テーブルと椅子2脚しかない小部屋である。入ってきたのは中内1人だった。

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 経営者への取材は応接室に通…

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