(ナガサキノート)原爆が奪った先生、ずっと美しいまま

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田部愛・26歳
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増山曉子さん(1934年生まれ)

 「立花先生」って、どんな人だったんだろう……。長崎市内にあった長崎県立長崎高等女学校の元女学生に被爆体験を聞く中で、私は度々話題に上がった女性のことが気になっていた。ある人は「洋風な美人だった」「優しかった」。別の人からは「厳しい先生だった」と聞いた。そしてあの日、生徒たちの引率で来ていた工場で亡くなったとも――。

 聞いた話の断片を手がかりに立花先生の親族を探すと、長崎市玉園町の観善寺に行き着いた。紹介してもらったのが、立花先生のめいにあたる増山曉子(ますやまあきこ)さん(84)。子どものころ、一緒に暮らしていた。

 増山さんが見せてくれたのは、目鼻立ちのはっきりした若い女性の写真。「立花先生」こと立花玉枝(たちばなたまえ)さんだ。原爆から数日後に発見された姿は変わり果てていた。火葬される前に、増山さんは遺体を見ようとしたが、「おばちゃんのきれいな顔を覚えておきなさい」と、祖母に止められた。73年が経った今は、それでよかったと思っている。

 増山さんは叔母のことを「教え子には厳しかったと聞いたけど、私には優しかった」と懐かしむ。玉枝さんは幼い増山さんをなぎなたの試合に連れて行ったり、女学校のプールで泳ぎを教えてくれたりした。「玉枝おばちゃん」とうまく言えず、「たまよばちゃん」と呼んで、慕っていたという。

 玉枝さんは運動神経が抜群だったようだ。テニスの全国大会に出場するほどで、玉枝さんが出た試合を実況するラジオを前に、増山さんは「ここに入ればおばちゃんに会えるのかな」と考えたという。「正義感が強い」という印象もある。物資が乏しい時代、生徒の保護者からの贈り物は受け取らず、返しに行っていた記憶がある。

 県立長崎高等女学校の教え子で、芥川賞作家の林京子(はやしきょうこ)さん(1930~2017)は著書「やすらかに今はねむり給え」で「意見をはっきり口に出す」「『異人さんの子のごたる』目鼻と、栗色の髪」と追想している。

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 増山さんに戦時中の記憶を尋…

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