(ナガサキノート)広島と長崎で被爆、70年間語れずに

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榎本瑞希・28歳
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福井絹代さん(1930年生まれ)【下】

 広島と長崎の原爆で「二重被爆」の体験をし、戦後は故郷の長崎から東京に引っ越した福井絹代さん。再び父・相川義次さん、弟・国義さんとの暮らしが始まった。「東京は、落ち着いているのかいないのかよく分からなかった」。茶道を習ったこともあったが、食料難でお菓子が手に入らなかったのか、代わりにサツマイモを使ったという。

 福井さんは小学校卒業前後に広島に引っ越してから、戦争のためにほとんど授業を受けた記憶がない。終戦後は、本を読んで漢字を覚えた。好きなのは中国の歴史小説。登場する強い女帝に憧れるという。

 小さいころ大好きだった映画も、再び見に行けるようになった。1947年、新宿で初めて見たアメリカ映画のタイトルは今でも覚えている。邦題は「桃色の店」。すれ違う男女を描いた、コメディー映画だった。「やみつきになっちゃった」。戦後は邦画ではなく、洋画ばかり見るようになったという。

 その後、絹代さんは知人の紹介で、青森出身の夫・義昭さんと出会った。1953年に結婚し、2人の子どもに恵まれた。つわりのひどかった絹代さんのために、義昭さんは何度もアイスクリームを買いに行ってくれた。幸せだった。

 ところが、義昭さんの故郷の青森に引っ越してから、異変が起きた。30代のころ、過労で体調を崩して入院。退院後も回復せず、食事も睡眠も満足にとれなくなってしまった。広島と長崎で被爆したことが脳裏をよぎったが、医師に被爆していることを話せなかった。診断は「自律神経失調症」だった。

 広島原爆被爆者健康手帳を取得したのは39歳の時。親類から聞いて初めて被爆者健康手帳のことを知り、広島にいた、いとこに証人になってもらった。

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