(ナガサキノート)「兄ちゃん、死ぬなよ」の言葉、胸に

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真野啓太・27歳
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深堀譲治さん(1931年生まれ)【下】

 1945年8月9日。長崎市鳴滝町の学校工場で強い光と風を感じた深堀譲治さんは、近くの竹やぶに避難した。頭上の真っ赤な雲を見て、前夜に聞いた広島の新型爆弾のことを思い出していた。

 自分たちの真上に爆弾が落ちたと思い、恐ろしく思っていたが、しばらくたっても何も起こらなかった。真っ赤な雲はその後、黒色、白色と変化し、徐々に薄れていった。

 竹やぶにいた深堀さんは、ふと自宅がある浦上方面を見た。深堀さんがいた場所と浦上方面は金比羅山をはじめとする山地が隔てていたが、その山々の稜線(りょうせん)が真っ赤になっていた。そのとき初めて、自分たちのいる場所ではなく、浦上の方面に爆弾が落とされたのだと悟った。「向こうがやられたのか」。深堀さんは自宅に残してきた母やきょうだいが心配で、早く帰りたかった。居ても立ってもいられない気持ちになり、うろうろしていた。

 昼過ぎになってようやく、「近所の者は工場の片付け、浦上方面は自宅待機」と先生から指示が出た。

 先生の許可が出ると、すぐさま家路についた。なぜそうしたのか、今では思い出せないが、途中で県庁の近くを通った。市中心部で目にする民家の瓦は、ずれたり落ちたり。戸は吹き飛ばされ、屋内の畳は跳ね上がり、道々にはガラスが散乱。傾いた家もあった。すでに避難したためか、人の姿はほとんどなかった。

 県庁の屋根からは、すーっと煙が上がっていた。県庁前から大波止へ坂を下りると、岸壁では船が一隻、燃えていた。

 長崎駅から現在の国道沿いに北上し、自宅に帰ろうとした。到着した駅舎はすでに火の手が盛んで、消防車がたった1台で、消防士が懸命に消火活動をしていたが、おさまる気配はなかった。深堀さんは駅近くを北側へ抜けようとしたが、「こっちは通れん」と、消防士たちに怒られ、あきらめた。駅周辺はその後、火災で焼け野原になるが、深堀さんが通ったときは、まだ町並みは残っていた。

 深堀さんは西山方面から浦上へ抜ける道を通り、帰ることにした。それまでに一度だけ、通ったことがある道だった。駅前にあった「大黒館」という映画館の屋根からは、すーっと煙が細く上がっていた。

 現・長崎市上西山町の料亭「富貴楼」の辺りにさしかかると、「また爆弾が落ちた」と騒ぎになっていた。深堀さんが空を見上げると、煙や雲の向こうに、だいだい色の丸いものが浮かんでいる。よく見ると、それは太陽だった。「太陽が赤くなっているだけですよ」と声をかけると、騒ぎは落ち着いた。

ここから続き

 西山方面へ向かおうとすると…

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