(ナガサキノート)被爆の記憶、なくても語る

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真野啓太・26歳
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川副忠子さん(1944年生まれ)

 被爆したことは覚えていないけれど、自身の「体験」のかけらを集め、それを語ろうとしている被爆者もいる。

 「1945年8月9日午前11時2分。私はいったい、どうなっていたんだろうか」

 長崎市の元小学校教諭、川副忠子(かわぞえただこ)さん(73)はそう話す。原爆投下時はまだ1歳半だった。市内の自宅にいたが当時の記憶はなく、被爆者なのに「被爆体験」がない。幼い頃から、まわりの大人が原爆の話をしているのを耳にしてきたが、悲しい話を聞くのは、いやだった。

 原爆や平和について正面から考えるようになったのは教師になってから。職場の仲間と原爆や平和をどう教えるかを考えてきた。語り部はこれまで、悲惨な体験をした年配の被爆者が担ってきた。だが近年は高齢化が進み、川副さんは「順番がまわってきたな」と感じている。「私は記憶がない世代。『自分がつらかった』ということは言えないけれど、話せることがあると思う」

 川副さんは1944年2月、長崎市材木町(ざいもくまち=現・賑町〈にぎわいまち〉)で生まれた。生家は母の実家で、呉服屋を営んでいた。米軍がのちに原爆の投下目標にした、市中心部の常盤橋(ときわばし)にほど近い場所だ。

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 だが戦争が進むにつれ、川副…

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