【アーカイブ】(人生の贈りもの)元沖縄県知事・大田昌秀:3 戦禍生き延びた子に教科書づくり

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【2015年3月4日夕刊5面】

 ――太平洋戦争が終わり、米軍の捕虜となりました。

 沖縄本島中部の屋嘉(やか)にある捕虜収容所へ連行されました。そこは軍人の収容所で、別に民間人の収容所が沖縄に16カ所ありました。途中、一緒だった日本軍兵長に「君は学徒隊だから、民間人の収容所に行けよ」と言われました。しかし、軍服を着ているうえ、兵隊として戦ったのですぐにばれると考え、そのまま向かったのです。

 収容所で素っ裸にされ、消毒薬のDDTを全身に浴びせられました。あの屈辱感は忘れられません。2カ月近くいましたが、米軍の憲兵がいないところで、日本軍の下士官や下級兵士が上司だった将校を殴ったり蹴ったりするのを見ました。戦場での怨恨(えんこん)や憎悪は、いとも簡単に暴力に結びつくのです。

 私は人間嫌いになり、希望を失いかけました。箸の先を裂いて筆をつくり、コーヒーを墨汁代わりに、「新生」という字を黙々と書き続けました。規則ずくめの師範学校から軍隊みたいな生活を送り、戦場では日本兵のエゴを見せつけられ、「聖戦」とまったく異なる体験をしました。二度とごめんです。だから、新しい生き方をしようと「新生」とつづり、自らに言い聞かせました。

 ――捕虜収容所から釈放後はどうされましたか。

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 誰かに嘉手納の米軍下士官ク…

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