追い続ける記者「まだ負けてない」 阪神支局襲撃30年

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 1987年5月3日。憲法記念日の夜、朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)に散弾銃を持った男が押し入り、小尻知博記者(当時29)を殺害、犬飼兵衛記者(72)に重傷を負わせた。犯行声明で「反日分子の処刑」を掲げた「赤報隊」はその後も事件を重ね、2003年に完全時効となった。暴力で言論を封じ込めようとした事件の犯人は見つかっていない。阪神支局襲撃事件から、きょうで30年。

事件追った警察・記者は

 あの夜、3人がいた阪神支局に散弾銃を持った男が侵入し、無言のまま犬飼記者と小尻記者に発砲した。小尻記者の体に薬莢(やっきょう)内の容器「カップワッズ」が入り込み、散弾粒約200個がはじけた。4日午前1時10分、亡くなった。犬飼記者は右手の小指と薬指を失うなどの重傷。

 阪神支局襲撃事件から翌年の静岡支局爆破未遂事件が時効になるまでの約16年間で兵庫県警は延べ62万人の捜査員を投入したが、容疑者逮捕には至らなかった。「犯行声明文を見ても歴史性があり、専門知識を要する事件でした」。当初から捜査に関わった県警元捜査1課長の山下征士さん(78)はふり返る。

 声明文で使われた「赤報隊」は、幕末に結成された勤皇の志士集団として実在していた。当初、その知識もなく、右翼思想や歴史に関する書籍を捜査の合間に手分けして読みあさった。

 9月に名古屋本社寮でも散弾が撃たれ、警察庁は「広域重要指定116号事件」として捜査。阪神支局事件の前の1月にも東京本社が銃撃を受けていたことが確認された。現物が残る声明文は同じワープロで作られており、県警はワープロ購入者や散弾銃の所有者らを追った。

 思想的背景を強くにおわせる事件。事件捜査を担う刑事部と右翼などの情報を蓄積する公安・警備部の連携が必要だった。だが協力は十分ではなかった。

 兵庫県警本部長として捜査を指揮、警察庁長官も務めた国松孝次さん(79)は96年、警視庁や各県警の両部門幹部らを招集。情報を出し合い、不審人物の事情聴取に踏み切る方針を示した。「時効が迫り、持っているネタは全部出して最後の勝負に出ようという思いだった」

 警察は重点捜査対象者をリストアップ。右翼活動家らを相次ぎ事情聴取した。「それほど見当違いな捜査をやっていたとは思わないが、(容疑者を)挙げてないのだから何とも言えない」と国松さんは悔やむ。

 記者も捜査情報を追いつつ犯人を捜し出すつもりで動いた。

 「反日朝日は 五十年前にかえれ」

 名古屋本社寮襲撃の犯行声明文の一節。50年前の1937年は、日中戦争が勃発した年だ。

 阪神支局事件の時効が迫るころ、大阪社会部記者だった東京社会部の小池淳デスク(48)は右翼の思想的支柱と呼ばれていた高齢男性を訪ねた。歴史認識をめぐり、朝日新聞と対立していた。物腰は穏やかだが、言葉には朝日新聞への激しい反発が込められていた。発言が一連の声明文と重なって感じられ、「事件と関係があるのでは」と興奮したのを覚えている。警察も男性に関心を寄せたが、事件との関連は見つからなかった。男性はその数年後に死去した。

 右翼活動家だけではなく、宗教団体なども含め様々な可能性を想定して関係者を取材した。当時東京社会部記者だった臼井敏男さん(68)は「うわさや推測はたくさんあった。分からないことだらけの事件だった」。

 発生から時効成立まで16年間、一貫してこの事件の取材を担ってきたのは、樋田毅さん(65)だ。「テロリストを養成したい」と話す右翼活動家の自宅で、明け方まで議論したこともあった。編集現場は離れ定年後の再雇用の職場で働くが、今も本業の合間をぬって情報を追い続けている。「取材を続けている限り、まだ負けていないと言えるから」

 意見や立場の違いがあっても、暴力によって人の命を奪っていいはずがない。記者は、この事件を忘れずに追い続ける。

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■右翼活動家ら、何を思う…

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