(ナガサキノート)「思い出したくない」体験を手紙に

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森本類・30歳
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原田覚さん(1929年生まれ)

 昨年秋、長崎県西海市被爆者・原田覚(はらださとる)さん(87)から一通の手紙が朝日新聞長崎総局に届いた。手紙には1945年8月9日から数日間の体験が克明に記されていた。末尾には、「あの日のことは思い出したくない思いで一杯」。なぜ手紙を出そうと思ったのか、その理由を尋ねに、自宅に伺った。

 当時15歳だった原田さんは、三菱兵器茂里町工場に動員されていた。仕事を休んだことは一度もなかったが、その日に限って、どうしても行く気になれなかった。原爆が落とされたのは、爆心地から3・4キロの長崎市飽の浦町の自宅にいるときだった。1キロ余りの距離にあった工場は大きな被害を受け、仲の良かった友人や工員も亡くなった。普段通り出勤していたら、無事では済まなかった。

 「仕事を休んだ負い目があった」。取材中、原田さんは繰り返した。家族にもあまり話すことはなかった。それでも筆をとったのは「今まで生きてきた人間の、原爆を経験してきた人間の責任」との思いからだという。

 原田さんは現在の活水中学・高校の場所にあった旧制鎮西学院中(現在の鎮西学院高。後に諫早市に移転)に通った。思い出すのは徹底的な英語排斥があったことだ。当時は陸軍の配属将校が、国に反する教育をしていないか目を光らせていた。ほかの学校は少尉か中尉だったというが、鎮西は大佐。ミッションスクールの鎮西は「目をつけられていた」という。「パン」と口に出そうものなら、「パンじゃない! 麦まんじゅうだ!」。

 1、2年のときは勉強ができただけ、まだよかった。3年に上がると同時に三菱兵器茂里町工場に動員された。原田さんがいたのは魚雷の部品をつなぐ職場。エンジン部分や爆薬を詰めるところを、小さな金属の鋲(びょう)を打ち込んで接合していく。それにやすりをかけ、抵抗がないようにするのが仕事だった。

 仕事は工員たちと一緒だったが、食堂は使わせてもらえなかった。弁当を持って行き、工場で食べた。「油まみれでした」と懐かしむ。

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