(ナガサキノート)71年ぶりに見た弟の写真、大粒の涙

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岡田将平・35歳
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松本文代さん(1927年生まれ)

 昨年、長崎県諫早市の松本(旧姓・田畑〈たばた〉)文代(まつもとふみよ)さん(89)が母の遺品を整理している時だった。古びた茶封筒の中に、1冊の本が入っていた。何げなくぱらぱらとめくっていると、ぽろっと1葉の小さな写真が出てきた。小学生ぐらいの時の松本さんと幼い弟、勝昭(かつあき)さんが並んで写っていた。71年ぶりに見る弟の姿だった。

 やんちゃ坊主だったという勝昭さん。現在の中学1年の時に原爆で帰らぬ人となった。骨すら見つからなかった。「探し出して」と訴えるかのように、夢の中に出てきたこともあった。戦後70年が過ぎ、「何かに引っ張られたよう」という巡り合い。「ホッとした」と振り返り、「私の一生の最後の仕事」と話すと、大粒の涙がぼろっとこぼれた。

 「思い出したくない。でも頭から離れない」という原爆の記憶。戦後、あまり語ることはなかったというが、自宅を訪れると、まるで封印が解かれたかのように詳しく語ってくれた。

 被爆当時18歳だった松本さんは、三重村(現在の長崎市三重地区)で小学3年生の頃まで育った。そこから移った先が長崎市橋口町。現在の平和祈念像浦上天主堂に挟まれた付近だ。松本さんは長女で、両親や弟、妹らと暮らし、城山尋常高等小学校(現・城山小)に通った。

 被爆前の様子を復元した地図を見ながら話を聞くと、ありありとかつての町の様子を思い浮かべながら語ってくれた。「隣は魚屋やった」「ここは鶏をたくさん飼うてた」「角はたばこ屋さん」……。「天主堂がすぐそこに見えよったですもんね」

 戦時中には「橋口町南部倶楽部」という公民館のような場所で、旗を振って出征する人を見送った。男手が少なく、今の平和公園の丘の下に母たちが防空壕(ごう)を掘った。

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 一帯は原爆の爆心地から40…

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