「記憶が、体が…」被爆体験、語れぬ時が(証言者は今)

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真野啓太 八尋紀子
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ナガサキノート3千回:上

 朝日新聞長崎県内版での連載開始から8年半。語れなくなった人もいれば、心の封印を解いた人、証言を残して亡くなった人もいる。ナガサキノートに登場した被爆者の今を伝える。

 言葉がぷつりと途絶えた。5年ほど前、東京から長崎に来た高校生に、被爆体験の講話をしていた時のことだ。30年近く語り部をしてきた長崎市の内田保信さん(88)。被爆時に一緒にいて亡くなった親友について語った後、言葉が出なくなった。

 それまでに話した内容を繰り返し、「トイレに」と言って部屋を出たまま、なかなか戻らなかった。同行していた妻の美喜江さん(87)が自らの体験を語り、その場をしのいだ。

 保信さんは70代になってから、道に迷ったり物忘れをしたりすることが増えた。美喜江さんは認知症を疑い始めていた。

 16歳のとき、爆心地の北1・4キロの親友宅で被爆した保信さん。庭で一緒にげたを作っていた親友は全身やけどを負い、その日のうちに亡くなった。保信さんは腕などをやけどしたが一命はとりとめた。

 国鉄の労働組合などを経て長崎県議を1期務め、50代後半から語り部活動を本格化させた。多い時には月の半分を講話に費やした。2010年8月9日の平和祈念式典では被爆者代表の「平和への誓い」で、親友の死や自身を含む家族の健康不安に触れ「原爆を、核兵器を絶対に許すことはできない」と述べた。

 東京の高校生への講話後、美喜江さんは保信さんと相談して講話の依頼を断ることにした。美喜江さんも被爆者で、自宅へ戻る途中に苦しむ人たちを助けなかったことが、ずっと心に引っかかっていた。「生き残った一人として意思を示していく責任がある」と思ってきたが、「(夫に)間違った話はさせられない」との気持ちが勝った。

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 保信さんの認知症の症状は少…

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