(ナガサキノート)総集編:胸躍る 子どもの時間
暮らしの中から:1 遊び
遊び、音楽、世界、ファッション、食、恋。今の私たちの日常にある言葉。そんな暮らしの中から、ナガサキノート3千回分を振り返ると、原爆で何があったのか、被爆者らがどう生きてきたのかが見えてきた。
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《長崎市松山町の交差点から、浦上天主堂の方へ入った辺りにはアメ屋があり、アメの塊を伸ばしてお菓子を作っていた。「伸ばして、はさみでちょんちょん切って。楽しくて見に行っていた」と懐かしむ。》
京都市の被爆者、西村長壽(ながとし)さん(89)=2015年に掲載=に話を聞いた際、被爆の体験は壮絶だが、被爆前の子どもの頃の思い出話には、胸が躍った。
《付近の国鉄の線路も遊び場だった。西村さんらは、色のきれいなガラス瓶を拾ってきて線路に置き、汽車にひかせた。そうすると、ガラスの粉の出来上がり。それを、のり代わりのごはん粒と混ぜ、たこ糸に練り混ぜる。その糸でたこを揚げて、糸同士を絡め合い、勝敗を競ったのだ。
「列車が入って、すぐに行くと怒られる。ガラスを置いて、じーっと隠れて待っているのがどんだけ楽しいか」。西村さんは少年のような笑顔を浮かべる。》
後に爆心地付近となった一帯の話だ。「原爆」と言えば、白黒写真の焼け野原のイメージがあるが、遊びの思い出を通して、その前の色鮮やかな情景が浮かび上がった。
西村さんは浦上川の話も聞かせてくれた。
《西村さんは、ウナギ捕りもした。「よく捕れた」と懐かしむ。とっぽ(竹筒)を川の中に入れて、石を上に組んでいく。すると、自然とウナギが入ってくるという。》
18歳の時に三菱兵器大橋工場で被爆した西村さんは、その後、爆心地近くの城山町の自宅に向かう途中、国鉄の線路付近や浦上川で多くの死体を目撃することになる。戦争・原爆で何を奪われたのか、ひしひしと感じた。
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