(ナガサキノート)爆心地そばの家、投下前日に疎開

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岡田将平・35歳
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井石昭子さん(1943年生まれ)

 いまの平和祈念像のところに家があったんです――。2016年9月、井石昭子(いせきあきこ)さん(73)=長崎県諫早市=と出会い、そう聞いた。祈念像付近はたびたび訪れる機会があるが、それまで、71年前、その付近に人々が暮らしていたことを具体的に想像したことはなかった。

 その話を聞いた後、すぐに当時の長崎市爆心地付近を復元した地図を開いた。橋口町のページに確かにあった。現在は平和公園となった長崎刑務所浦上刑務支所のすぐそばに「小泉」と書かれた家。井石さんの旧姓だ。

 爆心地そばとなったこの場所。1945年8月、井石さんの一家はこの家に住んでいた。だが、8月9日の直前に疎開した。「もしいれば私は生きていなかったでしょう」と井石さんは語る。「奇跡的です」

 爆心地から1キロほどにいた父も含め、一家はみな生き残った。当時1歳だった井石さんには被爆の記憶はない。だが、一昨年から本格的に、家族から聞いた一家の被爆を語り始めている。

 井石さんは43年、大阪で生まれた。両親はともに教師だった。父・小泉政利(こいずみまさとし)さんは英語、母・クニヨさんは体育を担当していた。政利さんは肺の病気を抱えていたため、井石さんが生まれてから、クニヨさんの郷里・長崎に移り住んだらしい。「原爆に遭いに来たようなもの」と井石さんは言う。姉ふたりと兄との6人家族は、長崎市橋口町で暮らし始めた。現在の平和祈念像の左手の下の崖に家はあったという。井石さんは後年、「西洋の家だった」と姉から聞いた。

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 戦時中、30代の政利さんに…

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