夏目漱石「吾輩は猫である」216

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 「それ見玉え。昔と今とは人間がそれだけ変ってる。昔は御上(おかみ)の御威光なら何でも出来た時代です。その次には御上の御威光でも出来ないものが出来てくる時代です。今の世はいかに殿下でも閣下でも、ある程度以上に個人の人格の上にのしかかる事が出来ない世の中です。はげしくいえば先方に権力があればあるほど、のしかかられるものの方では不愉快を感じて反抗する世の中です。だから今の世は昔しと違って、御上の御威光だから出来ないのだという新現象のあらわれる時代です、昔しのものから考えると、殆んど考えられない位な事柄が道理で通る世の中です。世態人情の変遷というものは実に不思議なもので、迷亭君の未来記も冗談だといえば冗談に過ぎないのだが、その辺の消息を説明したものとすれば、なかなか味(あじわい)があるじゃないですか」

 「そういう知己が出てくると是非未来記の続きが述べたくなるね。独仙君の御説の如く今の世に御上の御威光を笠(かさ)にきたり、竹槍の二、三百本を恃(たのみ)にして無理を押し通そうとするのは、丁度カゴへ乗って何でも蚊でも汽車と競争しようとあせる、時代後れの頑物(がんぶつ)――まあわからずやの張本、烏金(からすがね)の長範先生位のものだから、黙って御手際を拝見していればいいが――僕の未来記はそんな当座間に合せの小問題じゃない。人間全体の運命に関する社会的現象だからね。つらつら目下文明の傾向を達観して、遠き将来の趨勢を卜(ぼく)すると結婚が不可能の事になる。驚ろくなかれ、結婚の不可能。訳はこうさ。前(ぜん)申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者が悉く個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよといわぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中(うち)で喧嘩を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、慥かに自分は強くなったのだが、滅多に人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から一毫(いちごう)も犯されまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛(はんもう)でも人を侵してやろうと、弱い所は無理にも拡(ひろ)げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。かくの如く人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。日本でも山の中へ這入って見給え。一家(いっけ)一門悉く一軒のうちにごろごろしている。主張すべき個性もなく、あっても主張しないから、あれで済むのだが文明の民はたとい親子の間でも御互に我儘(わがまま)を張れるだけ張らなければ損になるから勢い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。欧洲は文明が進んでいるから日本より早くこの制度が行われている。たまたま親子同居するものがあっても、息子がおやじから利息のつく金を借りたり、他人のように下宿料を払ったりする。親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。この風は早晩日本へも是非輸入しなければならん。親類はとくに離れ、親子は今日(こんにち)に離れて、やっと我慢しているようなものの個性の発展と、発展につれてこれに対する尊敬の念は無制限にのびて行くから、まだ離れなくては楽が出来ない。しかし親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない訳だから、最後の方案として夫婦が分れる事になる。」

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