夏目漱石「吾輩は猫である」187

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 「する気でもなかったんですが、ついやってしまったんです。退校にならないように出来ないでしょうか」と武右衛門君は泣き出しそうな声をして頻(しき)りに哀願に及んでいる。襖の蔭では最前から細君と雪江さんがくすくす笑っている。主人はあくまでも勿体(もったい)ぶって「そうさな」を繰り返している。なかなか面白い。

 吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのは尤もだ。人間にせよ、動物にせよ、己(おのれ)を知るのは生涯の大事である。己を知る事が出来さえすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は吾輩もこんないたずらを書くのは気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである。しかし自分で自分の鼻の高さが分らないと同じように、自己の何物かはなかなか見当がつき悪(に)くいと見えて、平生から軽蔑している猫に向ってさえかような質問をかけるのであろう。人間は生意気なようでもやはり、どこか抜けている。万物の霊だなどとどこへでも万物の霊を担いであるくかと思うと、これしきの事実が理解出来ない。しかも恬(てん)として平然たるに至っては些(ち)と一●(口へんに豦)(いっきゃく)を催したくなる。彼は万物の霊を脊中へ担いで、おれの鼻はどこにあるか教えてくれ、教えてくれと騒ぎ立てている。それなら万物の霊を辞職するかと思うと、どう致して死んでも放しそうにしない。この位公然と矛盾をして平気でいられれば愛嬌(あいきょう)になる。愛嬌になる代りには馬鹿を以て甘(あまん)じなくてはならん。

 吾輩がこの際武右衛門君と…

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