夏目漱石「吾輩は猫である」174

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 姉のとん子は、自分の箸と茶碗を坊ばに掠奪(りゃくだつ)されて、不相応に小さな奴を以てさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、一杯にもったつもりでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。従って頻繁(ひんぱん)に御はちの方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。とん子は御はちの蓋(ふた)をあけて大きなしゃもじを取り上げて、しばらく眺(なが)めていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、終(つい)に決心したものと見えて、焦げのなさそうな所を見計って、一掬(ひとしゃく)いしゃもじの上へ乗せたまでは無難であったが、それを裏返して、ぐいと茶碗の上をこいたら、茶碗に入りきらん飯は塊(かた)まったまま畳の上へ転(ころ)がり出した。とん子は驚ろく景色もなく、こぼれた飯を鄭寧(ていねい)に拾い始めた。拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。少しきたないようだ。

 坊ばが一大活躍を試みて箸を刎ね上げた時は、丁度とん子が飯をよそいおわった時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔の如何にも乱雑なのを見かねて「あら坊ばちゃん、大変よ、顔が御(ご)ぜん粒だらけよ」といいながら、早速坊ばの顔の掃除にとりかかる。第一に鼻のあたまに寄寓(きぐう)していたのを取払う。取払って捨てると思の外、すぐ自分の口のなかへ入れてしまったのには驚ろいた。それから頰っぺたにかかる。ここには大分群(ぐん)をなして数にしたら、両方を合せて約二十粒もあったろう。姉は丹念に一粒ずつ取っては食い、取っては食い、とうとう妹の顔中にある奴を一つ残らず食ってしまった。この時只今までは大人しく沢庵(たくあん)をかじっていたすん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から薩摩芋(さつまいも)のくずれたのをしゃくい出して、勢よく口の内へ抛(ほう)り込んだ。諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど口中に答える者はない。大人ですら注意しないと火傷(やけど)をしたような心持ちがする。ましてすん子の如き、薩摩芋に経験の乏しい者は無論狼狽(ろうばい)する訳である。すん子はワッといいながら口中の芋を食卓の上へ吐き出した。その二、三片がどういう拍子か、坊ばの前まですべって来て、丁度いい加減な距離でとまる。坊ばは固(もと)より薩摩芋が大好きである。大好きな薩摩芋が眼の前へ飛んで来たのだから、早速箸を抛(ほう)り出して、手攫(てづか)みにしてむしゃむしゃ食ってしまった。

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 先刻(さっき)からこの体た…

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