夏目漱石「吾輩は猫である」173

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 長火鉢の傍(そば)に陣取って、食卓を前に控えたる主人の三面には、先刻(さっき)雑巾で顔を洗った坊ばと、御茶の味噌の学校へ行くとん子と、御白粉罎(おしろいびん)に指を突き込んだすん子が、既に勢揃(せいぞろい)をして朝飯を食っている。主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。とん子の顔は南蛮鉄の刀の鍔(つば)のような輪廓を有している。すん子も妹だけに多少姉の面影を存して琉球塗(りゅうきゅうぬり)の朱盆位な資格はある。ただ坊ばに至っては独(ひと)り異彩を放って、面長(おもなが)に出来上っている。但し竪(たて)に長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは横に長いのである。如何(いか)に流行が変化しやすくったって、横に長い顔がはやる事はなかろう。主人は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生長の速(すみや)かなる事は禅寺の筍(たけのこ)が若竹に変化する勢で大きくなる。主人はまた大きくなったなと思うたんびに、後ろから追手にせまられるような気がしてひやひやする。如何に空漠(くうばく)なる主人でもこの三令嬢が女である位は心得ている。女である以上はどうにか片付(かたづけ)なくてはならん位も承知している。承知しているだけで片付ける手腕のない事も自覚している。そこで自分の子ながらも少しく持て余しているところである。持て余す位なら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義をいうと外に何にもない。ただ入(い)らざる事を捏造(でつぞう)して自ら苦しんでいる者だといえば、それで充分だ。

 さすがに子供はえらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうに御飯をたべる。ところが始末におえないのは坊ばである。坊ばは当年とって三歳であるから、細君が気を利かして、食事のときには、三歳然たる小形(こがた)の箸(はし)と茶碗をあてがうのだが、坊ばは決して承知しない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかい悪(にく)い奴を無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人(しょうじん)ほど、いやにのさばり出て柄にもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊ば時代から萌芽(ほうが)しているのである。その因(よ)って来(きた)る所はかくの如く深いのだから、決して教育や薫陶で癒(なお)せる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。

 坊ばは隣りから分捕(ぶんど…

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