夏目漱石「吾輩は猫である」170

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 吾輩はこの光景を横に見て、茶の間から主人の寝室まで来てもう起きたかとひそかに様子をうかがって見ると、主人の頭がどこにも見えない。その代り十文半(ともんはん)の甲の高い足が、夜具の裾(すそ)から一本食(は)み出している。頭が出ていて起こされる時に迷惑だと思って、かくもぐり込んだのであろう。亀の子のような男である。ところへ書斎の掃除をしてしまった妻君がまた箒とはたきを担いでやってくる。最前のように襖の入口から

 「まだ御起きにならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。今度も返事がない。細君は入口から二歩(ふたあし)ばかり進んで、箒をとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて返事を承わる。この時主人は既に目が覚(さ)めている。覚めているから、細君の襲撃にそなうるため、あらかじめ夜具の中に首諸共(もろとも)立て籠(こも)ったのである。首さえ出さなければ、見逃(みのが)してくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして寐ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一回の声は敷居の上で、少くとも一間の間隔があったから、まず安心と腹のうちで思っていると、とんと突いた箒が何でも三尺位の距離に迫っていたにはちょっと驚ろいた。のみならず第二の「まだなんですか、あなた」が距離においても音量においても前よりも倍以上の勢を以て夜具のなかまで聞えたから、こいつは駄目だと覚悟をして、小さな声でうんと返事をした。

 「九時までにいらっしゃるの…

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