夏目漱石「吾輩は猫である」140

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 「いや、そう事が分かればよろしいです。球(たま)はいくら御投げになっても差支(さしつかえ)はないです。表からきてちょっと断わって下されば構いません。ではこの生徒はあなたに御引き渡し申しますから御連れ帰りを願います。いやわざわざ御呼び立て申して恐縮です」と主人は例によって例の如く竜頭蛇尾の挨拶をする。倫理の先生は丹波の笹山を連れて表門から落雲館へ引き上げる。吾輩のいわゆる大事件はこれで一と先ず落着を告げた。何のそれが大事件かと笑うなら、笑うがいい。そんな人には大事件でないまでだ。吾輩は主人の大事件を写したので、そんな人の大事件を記したのではない。尻が切れて強弩(きょうど)の末勢(ばっせい)だなどと悪口(あっこう)するものがあるなら、これが主人の特色である事を記憶してもらいたい。主人が滑稽文の材料になるのもまたこの特色に存する事を記憶してもらいたい。十四、五の小供を相手にするのは馬鹿だというなら吾輩も馬鹿に相違ないと同意する。だから大町桂月(おおまちけいげつ)は主人をつらまえていまだ稚気を免かれずというている。

 吾輩は既に小事件を叙しおわり、今また大事件を述べおわったから、これより大事件の後(あと)に起る余瀾(よらん)を描き出だして、全篇の結びを付けるつもりである。凡て吾輩のかく事は、口から出任せのいい加減と思う読者もあるかも知れないが決してそんな軽率な猫ではない。一字一句の裏(うち)に宇宙の一大哲理を包含するは無論の事、その一字一句が層々連続すると首尾相応じ前後相照らして、瑣談繊話(さだんせんわ)と思ってうっかりと読んでいたものが忽然(こつぜん)豹変(ひょうへん)して容易ならざる法語となるんだから、決して寐ころんだり、足を出して五行ごと一度に読むのだなどという無礼を演じてはいけない。柳宗元(りゅうそうげん)は韓退之(かんたいし)の文を読むごとに薔薇(しょうび)の水で手を清めたという位だから、吾輩の文に対してもせめて自腹で雑誌を買って来て、友人の御余りを借りて間に合わすという不始末だけはない事に致したい。これから述べるのは、吾輩自ら余瀾と号するのだけれど、余瀾ならどうせつまらんに極っている、読まんでもよかろうなどと思うと飛んだ後悔をする。是非しまいまで精読しなくてはいかん。

 大事件のあった翌日、吾輩は…

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