夏目漱石「吾輩は猫である」127

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 警察の厄介にならない代りに、数でこなした者と見えて沢山いる。うじゃうじゃいる。落雲館と称する私立の中学校――八百の君子をいやが上に君子に養成するために毎月弐円の月謝を徴集する学校である。名前が落雲館だから風流な君子ばかりかと思うと、それがそもそもの間違になる。その信用すべからざる事は群鶴館に鶴(つる)の下りざる如く、臥竜窟に猫がいるようなものである。学士とか教師とか号するものに主人苦沙弥君の如き気違のある事を知った以上は落雲館の君子が風流漢ばかりでないという事がわかる訳だ。それがわからんと主張するなら先ず三日ばかり主人のうちへ宿(とま)りに来て見るがいい。

 前(ぜん)申す如く、ここへ引き越しの当時は、例の空地に垣がないので、落雲館の君子は車屋の黒の如く、のそのそと桐畠に這入(はい)り込んできて、話をする、弁当を食う、笹(ささ)の上に寐転(ねころ)ぶ――色々の事をやったものだ。それからは弁当の死骸(しがい)即ち竹の皮、古新聞、あるいは古草履、古下駄、ふるという名のつくものを大概ここへ棄(す)てたようだ。無頓着(むとんじゃく)なる主人は存外平気に構えて、別段抗議も申し込まずに打ち過ぎたのは、知らなかったのか、知っても咎(とが)めんつもりであったのか分らない。ところが彼ら諸君子は学校で教育を受くるに従って、漸々(だんだん)君子らしくなったものと見えて、次第に北側から南側の方面へ向けて蚕食を企だてて来た。蚕食という語が君子に不似合ならやめてもよろしい。但し外に言葉がないのである。彼らは水草(すいそう)を追うて居を変ずる沙漠(さばく)の住民の如く、桐の木を去って檜の方に進んで来た。檜のある所は座敷の正面である。よほど大胆なる君子でなければこれほどの行動は取れんはずである。一両日の後(のち)彼らの大胆は更に一層の大を加えて大々胆となった。教育の結果ほど恐しいものはない。彼らは単に座敷の正面に逼(せま)るのみならず、この正面において歌をうたいだした。何という歌か忘れてしまったが、決して三十一文字(みそひともじ)の類(たぐい)ではない、もっと活潑(かっぱつ)で、もっと俗耳に入(い)りやすい歌であった。驚ろいたのは主人ばかりではない、吾輩までも彼ら君子の才芸に嘆服して覚えず耳を傾けた位である。しかし読者も御案内であろうが、嘆服という事と邪魔という事は時として両立する場合がある。この両者がこの際図らずも合して一となったのは、今から考えて見ても返す返す残念である。主人も残念であったろうが、やむをえず書斎から飛び出して行って、ここは君らの這入る所ではない、出給えといって、二、三度追い出したようだ。ところが教育のある君子の事だから、こんな事で大人(おとな)しく聞く訳がない。追い出されればすぐ這入る。這入れば活潑なる歌をうたう。高声に談話をする。しかも君子の談話だから一風違って、おめえだの知らねえのという。そんな言葉は御維新前(ごいっしんまえ)は折助(おりすけ)と雲助(くもすけ)と三助(さんすけ)の専門的知識に属していたそうだが、二十世紀になってから教育ある君子の学ぶ唯一の言語であるそうだ。一般から軽蔑(けいべつ)せられたる運動が、かくの如く今日歓迎せらるるようになったのと同一の現象だと説明した人がある。主人はまた書斎から飛び出してこの君子流の言葉に尤(もっと)も堪能(かんのう)なる一人を捉(つら)まえて、何故(なぜ)ここへ這入るかと詰問したら、君子は忽(たちま)ち「おめえ、知らねえ」の上品な言葉を忘れて「ここは学校の植物園かと思いました」と頗(すこぶ)る下品な言葉で答えた。主人は将来を戒めて放してやった。放してやるのは亀の子のようで可笑(おか)しいが、実際彼は君子の袖(そで)を捉(とら)えて談判したのである。この位やかましくいったらもうよかろうと主人は思っていたそうだ。ところが実際は女媧(じょか)氏(し)の時代から予期と違うもので、主人はまた失敗した。今度は北側から邸内を横断して表門から抜ける、表門をがらりとあけるから御客かと思うと桐畠の方で笑う声がする。形勢は益(ますます)不穏である。教育の功果はいよいよ顕著になってくる。気の毒な主人はこいつは手に合わんと、それから書斎へ立て籠(こも)って、恭(うやうや)しく一書を落雲館校長に奉って、少々御取締をと哀願した。校長も鄭重(ていちょう)なる返書を主人に送って、垣をするから待ってくれといった。

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