夏目漱石「吾輩は猫である」117

有料記事

[PR]

 何が奇観だ? 何が奇観だって吾輩はこれを口にするを憚(はば)かるほどの奇観だ。この硝子窓の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間は悉く裸体である。台湾の生蕃(せいばん)である。二十世紀のアダムである。そもそも衣装の歴史を繙(ひもと)けば――長い事だからこれはトイフェルスドレック君に譲って、繙くだけはやめてやるが、――人間は全く服装で持ってるのだ。十八世紀の頃大英国バスの温泉場(おんせんば)においてボー・ナッシが厳重な規則を制定した時などは浴場内で男女とも肩から足まで着物でかくした位である。今を去る事六十年前(ぜん)これも英国の去る都で図案学校を設立した事がある。図案学校の事であるから、裸体画、裸体像の模写、模型を買い込んで、ここ、かしこに陳列したのはよかったが、いざ開校式を挙行する一段になって当局者を初め学校の職員が大困却をした事がある。開校式をやるとすれば、市の淑女を招待(しょうだい)しなければならん。ところが当時の貴婦人方の考によると人間は服装の動物である。皮を着た猿の子分ではないと思っていた。人間として着物をつけないのは象の鼻なきが如く、学校の生徒なきが如く、兵隊の勇気なきが如く全くその本体を失している。いやしくも本体を失している以上は人間としては通用しない、獣類である。仮令(たとい)模写模型にせよ獣類の人間と伍(ご)するのは貴女(きじょ)の品位を害する訳である。でありますから妾(しょう)らは出席御断わり申すといわれた。そこで職員どもは話せない連中だとは思ったが、何しろ女は東西両国を通じて一種の装飾品である。米舂(こめつき)にもなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる化装道具である。というところから仕方がない、呉服屋へ行って黒布を三十五反八分(ぶんの)七買って来て例の獣類の人間に悉く着物をきせた。失礼があってはならんと念に念を入れて顔まで着物をきせた。かようにして漸くの事滞(とどこお)りなく式を済ましたという話がある。その位衣服は人間にとって大切なものである。近頃は裸体画裸体画といって頻りに裸体を主張する先生もあるがあれはあやまっている。生れてから今日に至るまで一日も裸体になった事がない吾輩から見ると、どうしても間違っている。裸体は希臘(ギリシャ)、羅馬(ローマ)の遺風が文芸復興時代の淫靡(いんび)の風に誘われてから流行(はや)りだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常(ふだん)から裸体を見做(みな)れていたのだから、これを以て風教上の利害の関係があるなどとは毫も思い及ばなかったのだろうが北欧は寒い所だ。日本でさえ裸で道中がなるものかという位だから独逸(ドイツ)や英吉利(イギリス)で裸になっておれば死んでしまう。死んでしまっては詰らないから着物をきる。みんなが着物をきれば人間は服装の動物になる。一たび服装の動物となった後(のち)に、突然裸体動物に出逢えば人間とは認めない、獣(けだもの)と思う。それだから欧洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像を以て獣として取り扱っていいのである。猫に劣る獣と認定していいのである。美しい? 美しくても構わんから、美しい獣と見做せばいいのである。こういうと西洋婦人の礼服を見たかというものもあるかも知れないが、猫の事だから西洋婦人の礼服を拝見した事はない。聞くところによると彼らは胸をあらわし、肩をあらわし、腕をあらわしてこれを礼服と称しているそうだ。怪しからん事だ。十四世紀頃までは彼らの出で立ちはしかく滑稽ではなかった、やはり普通の人間の着るものを着ておった。それが何故こんな下等な軽術師(かるわざし)流に転化してきたかは面倒だから述べない。

     ◇

 【台湾の生蕃】台湾高地の先…

この記事は有料記事です。残り251文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【お得なキャンペーン中】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら