夏目漱石「吾輩は猫である」116

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 しかしこの二方法とも実行出来んとなると甚だ心細い。今において一工夫して置かんとしまいにはむずむず、ねちねちの結果病気に罹(かか)るかも知れない。何か分別はあるまいかなと、後(あ)と足(あし)を折って思案したが、ふと思い出した事がある。うちの主人は時々手拭(てぬぐい)と石鹼(シャボン)を以て飄然(ひょうぜん)といずれへか出て行く事がある、三、四十分して帰ったところを見ると彼の朦朧(もうろう)たる顔色(がんしょく)が少しは活気を帯びて、晴れやかに見える。主人のような汚苦(むさくる)しい男にこの位な影響を与えるなら吾輩にはもう少し利目(ききめ)があるに相違ない。吾輩はただでさえこの位な器量だから、これより色男になる必要はないようなものの、万一病気に罹って一歳何が月で夭折(ようせつ)するような事があっては天下の蒼生(そうせい)に対して申し訳がない。聞いて見るとこれも人間のひま潰(つぶ)しに案出した洗湯(せんとう)なるものだそうだ。どうせ人間の作ったものだから碌(ろく)なものでないには極っているがこの際の事だから試(ため)しに這入(はい)って見るのもよかろう。やって見て功験がなければよすまでの事だ。しかし人間が自己のために設備した浴場へ異類の猫を入れるだけの洪量(こうりょう)があるだろうか。これが疑問である。主人が澄まして這入る位の所だから、よもや吾輩を断わる事もなかろうけれども万一御気の毒様を食うような事があっては外聞がわるい。これは一先(ひとま)ず容子を見に行くに越した事はない。見た上でこれならよいと当りが付いたら、手拭を啣(くわ)えて飛び込んで見よう。とここまで思案を定めた上でのそのそと洗湯へ出掛た。

 横町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが屹立(きつりつ)して先から薄い烟(けむり)を吐いている。これ即ち洗湯である。吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。裏口から忍び込むのを卑怯(ひきょう)とか未練とかいうが、あれは表からでなくては訪問する事が出来ぬものが嫉妬(しっと)半分に囃(はや)し立てる繰(く)り言(ごと)である。昔から利口な人は裏口から不意を襲う事にきまっている。『紳士養成方』の第二巻第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の遺書にして自身徳を得るの門なりとある位だ。吾輩は二十世紀の猫だからこの位の教育はある。あんまり軽蔑してはいけない。さて忍び込んで見ると、左の方に松を割って八寸位にしたのが山のように積んであって、その隣りには石炭が岡のように盛ってある。なぜ松薪(まつまき)が山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。人間も米を食ったり、鳥を食ったり、肴(さかな)を食ったり、獣(けもの)を食ったり色々の悪(あく)もの食いをしつくした揚句遂(つい)に石炭まで食うように堕落したのは不憫(ふびん)である。行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を覗くとがんがらがんのがあんと物静かである。その向側で何か頻(しき)りに人間の声がする。いわゆる洗湯はこの声の発する辺に相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子(ガラス)窓(まど)があって、そのそとに丸い小桶(こおけ)が三角形即ちピラミッドの如く積みかさねてある。丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、窃(ひそ)かに小桶諸君の意を諒(りょう)とした。小桶の南側は四、五尺の間(あいだ)板が余って、あたかも吾輩を迎うるものの如く見える。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂(おあつら)えの上等である。よろしいといいながらひらりと身を躍(おど)らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。天下に何が面白いといって、いまだ食わざるものを食い、いまだ見ざるものを見るほどの愉快はない。諸君もうちの主人の如く一週三度位、この洗湯界に三十分乃至(ないし)四十分を暮すならいいが、もし吾輩の如く風呂というものを見た事がないなら、早く見るがいい。親の死目に逢わなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな奇観はまたとあるまい。

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