夏目漱石「吾輩は猫である」110

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 猫といえども相当の時機が到着すれば、みんな鎌倉あたりへ出掛るつもりでいる。但し今はいけない。物には時機がある。御維新前(ごいっしんまえ)の日本人が海水浴の功能を味わう事が出来ずに死んだ如く、今日の猫はいまだ裸体で海の中へ飛び込むべき機会に遭遇しておらん。せいては事を仕損んずる、今日のように築地(つきじ)へ打っちゃられに行った猫が無事に帰宅せん間はむやみに飛び込む訳には行かん。進化の法則でわれら猫輩の機能が狂瀾怒濤(きょうらんどとう)に対して適当の抵抗力を生ずるに至るまでは――換言すれば猫が死んだという代りに猫が上がったという語が一般に使用せらるるまでは――容易に海水浴は出来ん。

 海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取り敢(あえ)ずやる事に取り極(き)めた。どうも二十世紀の今日運動せんのは如何(いか)にも貧民のようで人聞きがわるい。運動をせんと、運動せんのではない、運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昔は運動したものが折助(おりすけ)と笑われた如く、今では運動をせぬ者が下等と見做(みな)されている。吾人(ごじん)の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉の如く変化する。吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲(ひんしつ)とくると真逆(まっさ)かさまにひっくり返る。ひっくり返っても差(さ)し支(つかえ)はない。物には両面がある、両端がある。両端を叩(たた)いて黒白(こくびゃく)の変化を同一物の上に起すところが人間の融通のきくところである。方寸を逆かさまにして見ると寸方となる所に愛嬌(あいきょう)がある。天(あま)の橋立(はしだて)を股倉(またぐら)から覗(のぞ)いて見るとまた格別な趣(おもむき)が出る。セクスピヤも千古万古(ばんこ)セクスピヤではつまらない。偶(たま)には股倉から『ハムレット』を見て、君こりゃ駄目だよ位にいう者がないと、文界も進歩しないだろう。だから運動をわるくいった連中(れんじゅう)が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往来をあるき廻ったって一向不思議はない。ただ猫が運動するのを利いた風だなどと笑いさえしなければよい。さて吾輩の運動は如何なる種類の運動かと不審を抱(いだ)く者があるかも知れんから一応説明しようと思う。御承知の如く不幸にして機械を持つ事が出来ん。だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。次には金がないから買う訳に行かない。この二つの源因からして吾輩の選んだ運動は一文入らず器械なしと名づくべき種類に属する者と思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるいは鮪(まぐろ)の切身を啣(くわ)えて馳(か)け出す事と考えるかも知れんが、ただ四本の足を力学的に運動させて、地球の引力に順(したが)って、大地を横行するのは、あまり単簡で興味がない。いくら運動と名がついても、主人の時々実行するような、読んで字の如き運動はどうも運動の神聖を汚がす者だろうと思う。勿論(もちろん)ただの運動でもある刺激の下(もと)にはやらんとは限らん。鰹節(かつぶし)競争、鮭探(しゃけさが)しなどは結構だがこれは肝心の対象物があっての上の事で、この刺激を取り去ると索然として没趣味なものになってしまう。懸賞的興奮剤がないとすれば何か芸のある運動がして見たい。吾輩は色々考えた。台所の廂(ひさし)から家根(やね)に飛び上がる方、家根の天辺(てっぺん)にある梅花形(ばいかがた)の瓦(かわら)の上に四本足で立つ術、物干竿(ものほしざお)を渡る事、――これは到底成功しない、竹がつるつる滑(す)べって爪(つめ)が立たない。後ろから不意に小供に飛びつく事、――これは頗(すこぶ)る興味のある運動の一(ひとつ)だが滅多にやるとひどい目に逢(あ)うから、高々(たかだか)月に三度位しか試みない。紙袋(かんぶくろ)を頭へかぶせらるる事――これは苦しいばかりで甚だ興味の乏しい方法である。殊(こと)に人間の相手がおらんと成功しないから駄目。次には書物の表紙を爪で引き搔(か)く事、――これは主人に見付かると必ずどやされる危険があるのみならず、割合に手先の器用ばかりで総身(そうしん)の筋肉が働かない。これらは吾輩のいわゆる旧式運動なる者である。

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