夏目漱石「吾輩は猫である」100

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 「へえ!」と細君はあっけに取られている。「這入って見ると八畳の真中に大きな囲炉裏(いろり)が切ってあって、その周(まわ)りに娘と娘の爺(じい)さんと婆(ばあ)さんと僕と四人坐ったんですがね。さぞ御腹(おなか)が御減りでしょうといいますから、何でも善(い)いから早く食わせ給えと請求したんです。すると爺さんが折角の御客さまだから蛇飯(へびめし)でも炊(た)いて上げようというんです。さあこれからがいよいよ失恋に取り掛るところだから確(しっ)かりして聴き玉え」「先生確かりして聴く事は聴きますが、なんぼ越後の国だって冬、蛇がいやしますまい」「うん、そりゃ一応尤もな質問だよ。しかしこんな詩的な話しになるとそう理窟(りくつ)にばかり拘泥(こうでい)してはいられないからね。鏡花(きょうか)の小説にゃ雪の中から蟹(かに)が出てくるじゃないか」といったら寒月君は「なるほど」といったきりまた謹聴の態度に復した。

 「その時分の僕は随分悪(あく)もの食いの隊長で、蝗(いなご)、なめくじ、赤蛙などは食い厭(あ)きていた位なところだから、蛇飯は乙(おつ)だ。早速御馳走になろうと爺さんに返事をした。そこで爺さん囲炉裏の上へ鍋(なべ)をかけて、その中へ米を入れてぐずぐず煮出したものだね。不思議な事にはその鍋の蓋を見ると大小十個ばかりの穴があいている。その穴から湯気がぷうぷう吹くから、旨い工夫をしたものだ、田舎にしては感心だと見ていると、爺さんふと立って、どこかへ出て行ったが暫(しばら)くすると、大きな笊(ざる)を小脇(こわき)に抱(か)い込んで帰って来た。何気なくこれを囲炉裏の傍(そば)へ置いたから、その中を覗いて見ると――いたね。長い奴が、寒いもんだから御互にとぐろの捲(ま)きくらをやって塊(かた)まっていましたね」「もうそんな御話しは廃(よ)しになさいよ。厭らしい」と細君は眉(まゆ)に八の字を寄せる。「どうしてこれが失恋の大源因になるんだからなかなか廃せませんや。爺さんはやがて左手に鍋の蓋をとって、右手に例の塊まった長い奴を無雑作につかまえて、いきなり鍋の中へ放り込んで、すぐ上から蓋をしたが、さすがの僕もその時ばかりははっと息の穴が塞(ふさが)ったかと思ったよ」「もう御やめになさいよ。気味(きび)の悪るい」と細君頻(しき)りに怖(こわ)がっている。「もう少しで失恋になるから暫く辛抱していらっしゃい。すると一分立つか立たないうちに蓋の穴から鎌首(かまくび)がひょいと一つ出ましたのには驚ろきましたよ。やあ出たなと思うと、隣の穴からもまたひょいと顔を出した。また出たよといううち、あちらからも出る。こちらからも出る。とうとう鍋中蛇の面(つら)だらけになってしまった」「なんで、そんなに首を出すんだい」「鍋の中が熱いから、苦しまぎれに這い出そうとするのさ。やがて爺さんは、もうよかろう、引っ張らっしとか何とかいうと、婆さんははあーと答える、娘はあいと挨拶をして、名々(めいめい)に蛇の頭を持ってぐいと引く。肉は鍋の中に残るが、骨だけは奇麗に離れて、頭を引くと共に長いのが面白いように抜け出してくる」「蛇の骨抜きですね」と寒月君が笑いながら聞くと「全くの事骨抜だ、器用な事をやるじゃないか。それから蓋を取って、杓子(しゃくし)で以て飯と肉をやたらに搔き交(ま)ぜて、さあ召し上がれと来た」「食ったのかい」と主人が冷淡に尋ねると、細君は苦い顔をして「もう廃(よ)しになさいよ、胸が悪るくって御飯も何もたべられやしない」と愚痴をこぼす。「奥さんは蛇飯を召し上がらんから、そんな事を仰しゃるが、まあ一遍たべて御覧なさい、あの味ばかりは生涯忘れられませんぜ」「おお、いやだ、誰が食べるもんですか」「そこで充分御饌(ごぜん)も頂戴(ちょうだい)し、寒さも忘れるし、娘の顔も遠慮なく見るし、もう思い置く事はないと考えていると、御休みなさいましというので、旅の労(つか)れもある事だから、仰(おおせ)に従って、ごろりと横になると、済まん訳だが前後を忘却して寐てしまった」「それからどうなさいました」と今度は細君の方から催促する。「それから明朝(あくるあさ)になって眼を覚(さま)してからが失恋でさあ」「どうかなさったんですか」

     ◇…

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