夏目漱石「吾輩は猫である」104

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 寒月君は返事をする前に先ず鷹揚(おうよう)な咳払(せきばらい)を一つして見せたが、それからわざと落ち付いた低い声で、こんな観察を述べられた。「この頃の女は学校の行き帰りや、合奏会や、慈善会や、園遊会で、ちょいと買って頂戴な、あらおいや? などと自分で自分を売りにあるいていますから、そんな八百屋の御余りを雇って、女の子はよしか、なんて下品な依託販売をやる必要はないですよ。人間に独立心が発達してくると自然こんな風になるものです。老人なんぞは入らぬ取越苦労をして何とか蚊とかいいますが、実際をいうとこれが文明の趨勢(すうせい)ですから、私などは大に喜ばしい現象だと、ひそかに慶賀の意を表しているのです。買う方だって頭を敲(たた)いて品物は確かかなんて聞くような野暮は一人もいないんですからその辺は安心なものでさあ。またこの複雑な世の中に、そんな手数をする日にゃあ、際限がありませんからね。五十になったって六十になったって亭主を持つ事も嫁に行く事も出来やしません」寒月君は二十世紀の青年だけあって、大(おおい)に当世流の考を開陳して置いて、敷島の烟(けむり)をふうーと迷亭先生の顔の方へ吹き付けた。迷亭は敷島の烟位で辟易する男ではない。「仰せの通り方今の女生徒、令嬢などは自尊自信の念から骨も肉も皮まで出来ていて、何でも男子に負けない所が敬服の至りだ。僕の近所の女学校の生徒などと来たらえらいものだぜ。筒袖(つつそで)を穿(は)いて鉄棒(かなぼう)へぶら下がるから感心だ。僕は二階の窓から彼らの体操を目撃するたんびに古代希臘(ギリシャ)の婦人を追懐するよ」「また希臘か」と主人が冷笑するようにいい放つと「どうも美な感じのするものは大抵希臘から源(みなもと)を発しているから仕方がない。美学者と希臘とは到底離れられないやね。――ことにあの色の黒い女学生が一心不乱に体操をしているところを拝見すると、僕はいつでもAgnodiceの逸話を思い出すのさ」と物知り顔にしゃべり立てる。「また六ずかしい名前が出て来ましたね」と寒月君は依然としてにやにやする。「Agnodiceはえらい女だよ、僕は実に感心したね。当時亜典(アテン)の法律で女が産婆を営業する事を禁じてあった。不便な事さ。Agnodiceだってその不便を感ずるだろうじゃないか」「何だい、その――何とかいうのは」「女さ、女の名前だよ。この女がつらつら考えるには、どうも女が産婆になれないのは情けない、不便極まる。どうかして産婆になりたいもんだ、産婆になる工夫はあるまいかと三日三晩手を拱(こまぬ)いて考え込んだね。丁度三日目の暁方(あけがた)に、隣の家で赤ん坊がおぎゃあと泣いた声を聞いて、うんそうだと豁然大悟(かつぜんたいご)して、それから早速長い髪を切って男の着物をきてHierophilusの講義をききに行った。首尾よく講義をきき終(おお)せて、もう大丈夫というところで以て、いよいよ産婆を開業した。ところが、奥さん流行(はや)りましたね。あちらでもおぎゃあと生れるこちらでもおぎゃあと生れる。それがみんなAgnodiceの世話なんだから大変儲(もう)かった。ところが人間万事塞翁(さいおう)の馬、七転(ななころ)び八起(やお)き、弱り目に祟(たた)り目で、ついこの秘密が露見に及んで遂に御上の御法度(ごはっと)を破ったというところで、重き御仕置に仰せつけられそうになりました」「まるで講釈見たようです事」「なかなか旨(うま)いでしょう。ところが亜典(アテン)の女連が一同連署して嘆願に及んだから、時の御奉行(ごぶぎょう)もそう木で鼻を括(くく)ったような挨拶も出来ず。遂に当人は無罪放免、これからはたとい女たりとも産婆営業勝手たるべき事という御布令(おふれ)さえ出て目出度(めでたく)落着を告げました」「よく色々な事を知っていらっしゃるのね、感心ねえ」「ええ大概の事は知っていますよ。知らないのは自分の馬鹿な事位なものです。しかしそれも薄々は知ってます」「ホホホホ面白い事ばかり……」と細君相形(そうごう)を崩して笑っていると、格子戸(こうしど)のベルが相変らず着けた時と同じような音を出して鳴る。「おやまた御客様だ」と細君は茶の間へ引き下がる。細君と入れ違いに座敷へ這入って来たものは誰かと思ったら御存じの越智東風(おちとうふう)君であった。

     ◇

 【筒袖】和服で、袂(たもと…

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