夏目漱石「吾輩は猫である」101

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 「いえ別にどうもしやしませんがね。朝起きて巻(まき)煙草(タバコ)をふかしながら裏の窓から見ていると、向うの筧(かけい)の傍(そば)で、薬缶(やかん)頭(あたま)が顔を洗っているんでさあ」「爺さんか婆さんか」と主人が聞く。「それがさ、僕にも識別しにくかったから、暫らく拝見していて、その薬缶がこちらを向く段になって驚ろいたね。それが僕の初恋をした昨夜(ゆうべ)の娘なんだもの」「だって娘は島田に結(い)っているとさっきいったじゃないか」「前夜は島田さ、しかも見事な島田さ。ところが翌朝(あくるあさ)は丸薬缶さ」「人を馬鹿にしていらあ」と主人は例によって天井の方へ視線をそらす。「僕も不思議の極(きょく)内心少々怖くなったから、なお余所(よそ)ながら容子を窺(うかが)っていると、薬缶は漸く顔を洗いおわって、傍(かた)えの石の上に置いてあった高島田の鬘(かずら)を無雑作に被(かぶ)って、済してうちへ這入ったんでなるほどと思った。なるほどとは思ったようなもののその時から、とうとう失恋の果敢(はか)なき運命をかこつ身となってしまった」「くだらない失恋もあったもんだ。ねえ、寒月君、それだから、失恋でも、こんなに陽気で元気がいいんだよ」と主人が寒月君に向って迷亭君の失恋を評すると、寒月君は「しかしその娘が丸薬缶でなくって目出度(めでたく)東京へでも連れて御帰りになったら、先生はなお元気かも知れませんよ、とにかく折角の娘が禿(はげ)であったのは千秋の恨(こん)事(じ)ですねえ。それにしても、そんな若い女がどうして、毛が抜けてしまったんでしょう」「僕もそれについては段々考えたんだが全く蛇飯を食い過ぎたせいに相違ないと思う。蛇飯てえ奴はのぼせるからね」「しかしあなたは、どこも何ともなくて結構で御座いましたね」「僕は禿にはならずに済んだが、その代りにこの通りその時から近眼になりました」と金縁の眼鏡をとってハンケチで叮嚀に拭(ふ)いている。暫らくして主人は思い出したように「全体どこが神秘的なんだい」と念のために聞いて見る。「あの鬘(かずら)はどこで買ったのか、拾ったのかどう考えてもいまだに分らないからそこが神秘さ」と迷亭君はまた眼鏡を元の如く鼻の上へかける。「まるで噺(はな)し家(か)の話を聞くようで御座んすね」とは細君の批評であった。

 迷亭の駄弁もこれで一段落を告げたから、もうやめるかと思いの外、先生は猿轡(さるぐつわ)でも嵌(は)められないうちは到底黙っている事が出来ぬ性(たち)と見えて、また次のような事をしゃべり出した。

 「僕の失恋も苦い経験だが…

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