夏目漱石「吾輩は猫である」99

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 「まあこの容子じゃ十年位かかりそうです」と寒月君は主人より呑気(のんき)に見受けられる。「十年じゃ――もう少し早く磨り上げたらよかろう」「十年じゃ早い方です、事によると廿年位かかります」「そいつは大変だ、それじゃ容易に博士にゃなれないじゃないか」「ええ一日(いちじつ)も早くなって安心さして遣りたいのですがとにかく珠を磨り上げなくっちゃ肝心の実験が出来ませんから……」

 寒月君はちょっと句を切って「何、そんなに御心配には及びませんよ。金田でも私の珠ばかり磨ってる事はよく承知しています。実は二(に)、三日(さんち)前行った時にも能(よ)く事情を話して来ました」としたり顔に述べ立てる。すると今まで三人の談話を分らぬながら傾聴していた細君が「それでも金田さんは家族中残らず、先月から大磯(おおいそ)へ行っていらっしゃるじゃありませんか」と不審そうに尋ねる。寒月君もこれには少し辟易(へきえき)の体(てい)であったが「そりゃ妙ですな、どうしたんだろう」ととぼけている。こういう時に重宝なのは迷亭君で、話の途切れた時、極(きま)りの悪い時、眠くなった時、困った時、どんな時でも必ず横合(よこあい)から飛び出してくる。「先月大磯(おおいそ)へ行ったものに両三日前東京で逢うなどは神秘的でいい。いわゆる霊の交換だね。相思の情の切(せつ)な時にはよくそういう現象が起るものだ。ちょっと聞くと夢のようだが、夢にしても現実より慥(たし)かな夢だ。奥さんのように別に思いも思われもしない苦沙弥君の所へ片付いて生涯恋の何物たるを御解しにならん方には、御不審も尤(もっとも)だが……」「あら何を証拠にそんな事を仰しゃるの。随分軽蔑なさるのね」と細君は中途から不意に迷亭に切り付ける。「君だって恋煩(こいわずら)いなんかした事はなさそうじゃないか」と主人も正面から細君に助太刀(すけだち)をする。「そりゃ僕の艶聞(えんぶん)などは、いくらあってもみんな七十五日以上経過しているから、君方(きみがた)の記憶には残っていないかも知れないが――実はこれでも失恋の結果、この歳(とし)になるまで独身で暮らしているんだよ」と一順列坐の顔を公平に見廻わす。「ホホホホ面白い事」といったのは細君で、「馬鹿にしていらあ」と庭の方を向いたのは主人である。ただ寒月君だけは「どうかその懐旧談を後学のために伺いたいもので」と相変らずにやにやする。

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 「僕のも大分神秘的で、故小…

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