夏目漱石「吾輩は猫である」95

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 ところへ主人が、いつになく余り八釜(やかま)しいので、寐つき掛った眠をさかに扱(こ)かれたような心持で、ふらふらと書斎から出て来る。「相変らず八釜しい男だ。折角好い心持に寐ようとしたところを」と欠伸(あくび)交りに仏頂面をする。「いや御目覚かね。鳳眠(ほうみん)を驚かし奉って甚(はなは)だ相済まん。しかしたまには好かろう。さあ坐り玉え」とどっちが客だか分らぬ挨拶(あいさつ)をする。主人は無言のまま座に着いて寄木細工(よせぎざいく)の巻煙草入(まきタバコいれ)から「朝日」を一本出してすぱすぱ吸い始めたが、ふと向(むこう)の隅(すみ)に転がっている迷亭の帽子に眼をつけて「君帽子を買ったね」といった。迷亭はすぐさま「どうだい」と自慢らしく主人と細君の前に差し出す。「まあ奇麗だ事。大変目が細かくって柔らかいんですね」と細君は頻(しきり)に撫(な)で廻わす。「奥さんこの帽子は重宝ですよ、どうでも言う事を聞きますからね」と拳骨(げんこつ)をかためてパナマの横ッ腹をぽかりと張り付けると、なるほど意の如く拳(こぶし)ほどな穴があいた。細君が「へえ」と驚く間もなく、この度(たび)は拳骨を裏側へ入れてうんと突ッ張ると釜の頭がぽかりと尖(と)んがる。次には帽子を取って鍔(つば)と鍔とを両側から圧(お)し潰(つぶ)して見せる。潰れた帽子は麺棒(めんぼう)で延(の)した蕎麦(そば)のように平たくなる。それを片端から蓆(むしろ)でも巻く如くぐるぐる畳む。「どうですこの通り」と丸めた帽子を懐中へ入れて見せる。「不思議です事ねえ」と細君は帰天斎正一(きてんさいしょういち)の手品でも見物しているように感嘆すると、迷亭もその気になったものと見えて、右から懐中に収めた帽子をわざと左の袖口から引っ張り出して「どこにも傷はありません」と元の如くに直して、人さし指の先へ釜の底を戴(の)せてくるくると廻す。もう休(や)めるかと思ったら最後にぽんと後ろへ放(な)げてその上へ堂(ど)っさりと尻餅(しりもち)を突いた。「君大丈夫かい」と主人さえ懸念(けねん)らしい顔をする。細君は無論の事心配そうに「折角見事な帽子をもし壊(こ)わしでもしちゃあ大変ですから、もう好い加減になすったら宜(よ)う御座んしょう」と注意をする。得意なのは持主だけで「ところが壊われないから妙でしょう」と、くちゃくちゃになったのを尻の下から取り出してそのまま頭へ載せると、不思議な事には、頭の恰好に忽(たちま)ち回復する。「実に丈夫な帽子です事ねえ、どうしたんでしょう」と細君がいよいよ感心すると「なにどうもしたんじゃありません、元からこういう帽子なんです」と迷亭は帽子を被(かぶ)ったまま細君に返事をしている。

 「あなたも、あんな帽子を御買になったら、いいでしょう」と暫(しばら)くして細君は主人に勧めかけた。「だって苦沙弥君は立派な麦藁(むぎわら)の奴を持ってるじゃありませんか」「ところがあなた、先達て小供があれを踏み潰してしまいまして」「おやおやそりゃ惜(おし)い事をしましたね」「だから今度はあなたのような丈夫で奇麗なのを買ったら善(よ)かろうと思いますんで」と細君はパナマの価段(ねだん)を知らないものだから「これになさいよ、ねえ、あなた」と頻りに主人に勧告している。

     ◇…

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