夏目漱石「吾輩は猫である」91

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 吾輩が風呂場へ廻ると、敵は戸棚から馳け出し、戸棚を警戒すると流しから飛び上り、台所の真中に頑張っていると三方面とも少々ずつ騒ぎ立てる。小癪(こしゃく)といおうか、卑怯(ひきょう)といおうか到底彼らは君子の敵でない。吾輩は十五、六回はあちら、こちらと気を疲らし心(しん)を労(つか)らして奔走努力して見たが遂(つい)に一度も成功しない。残念ではあるがかかる小人(しょうじん)を敵にしては如何なる東郷大将も施こすべき策がない。始めは勇気もあり敵愾心(てきがいしん)もあり悲壮という崇高な美感さえあったが遂には面倒と馬鹿気ているのと眠いのと疲れたので台所の真中へ坐ったなり動かない事になった。しかし動かんでも八方睨(はっぽうにら)みを極め込んでいれば敵は小人だから大した事は出来んのである。目ざす敵と思った奴が、存外けちな野郎だと、戦争が名誉だという感じが消えて悪(に)くいという念だけ残る。悪くいという念を通り過すと張り合が抜けてぼーとする。ぼーとしたあとは勝手にしろ、どうせ気の利いた事は出来ないのだからと軽蔑の極(きょく)眠たくなる。吾輩は以上の径路をたどって、遂に眠くなった。吾輩は眠る。休養は敵中にあっても必要である。

 横向に庇(ひさし)を向いて開いた引窓から、また花吹雪を一塊(ひとかたま)りなげ込んで、烈(はげ)しき風のわれを遶(めぐ)ると思えば、戸棚の口から弾丸の如く飛び出した者が、避くる間(ま)もあらばこそ、風を切って吾輩の左の耳へ喰いつく。これに続く黒い影は後ろに廻るかと思う間もなく吾輩の尻尾へぶら下がる。瞬(またた)く間の出来事である。吾輩は何の目的もなく器械的に跳上(はねあが)る。満身の力を毛穴に込めてこの怪物を振り落とそうとする。耳に喰い下がったのは中心を失ってだらりとわが横顔に懸(かか)る。護謨(ゴム)管(かん)の如き柔かき尻尾の先が思い掛(がけ)なく吾輩の口に這入る。屈竟(くっきょう)の手懸りに、砕けよとばかり尾を啣(くわ)えながら左右にふると、尾のみは前歯の間に残って胴体は古新聞で張った壁に当って、揚板の上に跳ね返る。起き上がるところを隙間(すきま)なく乗(の)し掛れば、毬(まり)を蹴(け)たる如く、吾輩の鼻づらを掠(かす)めて釣り段の縁に足を縮めて立つ。彼は棚の上から吾輩を見卸す、吾輩は板の間から彼を見上ぐる。距離は五尺。その中に月の光りが、大幅の帯を空(くう)に張る如く横に差し込む。吾輩は前足に力を込めて、やっとばかり棚の上に飛び上がろうとした。前足だけは首尾よく棚の縁にかかったが後足(あとあし)は宙にもがいている。尻尾には最前の黒いものが、死ぬとも離るまじき勢で喰い下っている。吾輩は危うい。前足を懸け易(か)えて足懸りを深くしようとする。懸け易える度(たび)に尻尾の重みで浅くなる。二、三分(ぶ)滑れば落ちねばならぬ。吾輩はいよいよ危うい。棚板を爪で搔きむしる音ががりがりと聞える。これではならぬと左の前足を抜き易える拍子に、爪を見事に懸け損じたので吾輩は右の爪一本で棚からぶら下った。自分と尻尾に喰いつくものの重みで吾輩のからだがぎりぎりと廻わる。この時まで身動きもせずに覘(ねら)いをつけていた棚の上の怪物は、ここぞと吾輩の額を目懸けて棚の上から石を投ぐるが如く飛び下りる。吾輩の爪は一縷(いちる)のかかりを失う。三つの塊まりが一つとなって月の光を竪(たて)に切って下へ落ちる。次の段に乗せてあった摺鉢(すりばち)と、摺鉢の中の小桶とジャムの空缶(あきかん)が同じく一塊となって、下にある火消壺を誘って、半分は水甕(みずがめ)の中、半分は板の間の上へ転がり出す。凡(すべ)てが深夜にただならぬ物音を立てて死物狂いの吾輩の魂をさえ寒からしめた。

 「泥棒!」と主人は胴間声(…

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