夏目漱石「吾輩は猫である」90

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 それでもまだ心配が取れぬから、どういうものかと段々考えて見ると漸く分った。三個の計略のうちいずれを選んだのが尤も得策であるかの問題に対して、自(みずか)ら明瞭なる答弁を得るに苦しむからの煩悶(はんもん)である。戸棚から出るときには吾輩これに応ずる策がある、風呂場から現われる時はこれに対する計(はかりごと)がある、また流しから這い上るときはこれを迎うる成算もあるが、そのうちどれか一つに極めねばならぬとなると大に当惑する。東郷大将はバルチック艦隊が対馬(つしま)海峡を通るか、津軽(つがる)海峡へ出るか、あるいは遠く宗谷(そうや)海峡を廻るかについて大に心配されたそうだが、今吾輩が吾輩自身の境遇から想像して見て、御困却の段実に御察し申す。吾輩は全体の状況において東郷閣下に似ているのみならず、この格段なる地位においてもまた東郷閣下とよく苦心を同じゅうする者である。

 吾輩がかく夢中になって智謀をめぐらしていると、突然破れた腰障子が開(あ)いて御三(おさん)の顔がぬうと出る。顔だけ出るというのは、手足がないという訳ではない。ほかの部分は夜目(よめ)でよく見えんのに、顔だけが著るしく強い色をして判然眸底(ぼうてい)に落つるからである。御三はその平常より赤き頰を益●(●は二の字点)赤くして洗湯(せんとう)から帰ったついでに、昨夜(ゆうべ)に懲りてか、早くから勝手の戸締をする。書斎で主人が俺のステッキを枕元へ出して置けという声が聞える。何のために枕頭(ちんとう)にステッキを飾るのか吾輩には分らなかった。まさか易水(えきすい)の壮士を気取って、竜鳴を聞こうという酔狂でもあるまい。きのうは山の芋、今日はステッキ、明日(あす)は何になるだろう。

 夜(よ)はまだ浅い鼠はなか…

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