夏目漱石「吾輩は猫である」79

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 一代の画工が精力を消耗(しょうこう)して変化を求めた顔でも十二、三種以外に出る事が出来んのを以て推(お)せば、人間の製造を一手で受負った神の手際(てぎわ)は格別な者だと驚嘆せざるを得ない。到底人間社会において目撃し得ざる底(てい)の伎倆であるから、これを全能的伎倆といっても差(さ)し支(つかえ)ないだろう。人間はこの点において大に神に恐れ入っているようである、なるほど人間の観察点からいえば尤もな恐れ入り方である。しかし猫の立場からいうと同一の事実がかえって神の無能力を証明しているとも解釈が出来る。もし全然無能でなくとも人間以上の能力は決してない者であると断定が出来るだろうと思う。神が人間の数だけそれだけ多くの顔を製造したというが、当初から胸中に成算があってかほどの変化を示したものか、または猫も杓子(しゃくし)も同じ顔に造ろうと思ってやりかけて見たが、到底旨(うま)く行かなくて出来るのも出来るのも作り損(そこ)ねてこの乱雑な状態に陥ったものか、分らんではないか。彼ら顔面の構造は神の成功の紀念と見らるると同時に失敗の痕迹(こんせき)とも判ぜらるるではないか。全能ともいえようが、無能と評したって差し支はない。彼ら人間の眼は平面の上に二つ並んでいるので左右を一時に見る事が出来んから事物の半面だけしか視線内に這入(はい)らんのは気の毒な次第である。立場を換えて見ればこの位単純な事実は彼らの社会に日夜間断なく起りつつあるのだが、本人逆(のぼ)せ上がって、神に呑(の)まれているから悟りようがない。製作の上に変化をあらわすのが困難であるならば、その上に徹頭徹尾の模傚(もこう)を示すのも同様に困難である。ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚かけと注文するのは、全然似寄らぬマドンナを双幅(そうふく)見せろと逼(せま)ると同じく、ラファエルに取っては迷惑であろう、否同じ物を二枚かく方がかえって困難かも知れぬ。弘法大師に向って昨日書いた通りの筆法で空海と願いますという方がまるで書体を換えてと注文されるよりも苦しいかも分らん。人間の用うる国語は全然模傚主義で伝習するものである。彼ら人間が母から、乳母(うば)から、他人から実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すより外に毛頭の野心はないのである。出来るだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年と立つうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼らに完全なる模傚の能力がないという事を証明している。純粋の模傚はかくの如く至難なものである。従って神が彼ら人間を区別の出来ぬよう、悉皆(しっかい)焼印の御かめの如く作り得たならば益●(二の字点)神の全能を表明し得るもので、同時に今日の如く勝手次第な顔を天日(てんぴ)に曝(さ)らさして、目まぐるしきまでに変化を生ぜしめたのはかえってその無能力を推知し得るの具ともなり得るのである。

 吾輩は何の必要があってこんな議論をしたか忘れてしまった。本(もと)を忘却するのは人間にさえありがちの事であるから猫には当然の事さと大目に見てもらいたい。とにかく吾輩は寝室の障子をあけて敷居の上にぬっと現われた泥棒陰士を瞥見(べっけん)した時、以上の感想が自然と胸中に湧(わ)き出(い)でたのである。何故湧いた?――何故という質問が出れば、今一応考え直して見なければならん。――ええと、その訳はこうである。

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